冷戦真っ盛りの頃、核兵器の恐怖を描いた映画が数多く作られました。「渚にて」とか「五月の七日間」とか、黒澤明も「生きものの記録」を撮っています。実際、キューバ危機もありました。
まじめなものが多かったのですが、1964年、スタンリー・キューブリックは奇想天外な「博士の異常な愛情」(原題 Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)を発表。正気を失った戦略空軍の司令官がソ連への報復攻撃を命令と書いてきて長くなりそうなので止めにしますが古びてないし抜群に面白いです。終末近く落下する核爆弾に跨った機長がカウボーイハットを振りかざしているシーンだけでも想像を絶しますが、この人がこうまでして任務を完遂する人柄や能力が納得できますし、登場人物の全てにリアリティがあって人間の愚かしさをひしひしと感じるものの、ブラックコメディ調で笑い飛ばせるので後味は悪くないです。
それから半世紀、イスラエルとアメリカがイランを爆撃し休戦になったもののイランの核武装も現実味を帯び、中東の核ドミノも有得るとか物騒なことです。気違いに核兵器にならないことを祈ります。
米伊合作映画「天地創造」からノアの箱舟です。原題は「The Bible: In the Beginning...」日本の題名は意訳ですね。今なら「ザ・バイブル」とかしそうです。爺いとしては「天地創造」にしたのは大したものだと感心します。50年以上は前のはずですが映画館で見た大画面で、エヴァ・ガードナー演じるサライが暗闇に何とも言えない笑みを浮かべるシーンが目に浮かびます。ゲーテの「詩と真実」を引用したときサライは子を産まないので、あの笑みはなんだったのかなと不思議でしたが、天地創造のウィキペディアを読むとサライに子供が授かる予言が書いてありました。サライは90才で予言を信じられない笑みだったと得心しました。
ゲーテの学んだ創世記と違いがあるのは複数の伝承があって、超自然的な立場を排している伝承なのかなとも考えましたがどうなんでしょうか。
2025.11.30
芥子園画伝山石譜李成の模写です。久しぶりですね。
李成
李成の画は関同を師としており、霞や雲を描けば千変万化し、水や石は奥深くてもの静かで、嶮しい山もなだらかな山も、それぞれ最高の味わいを見せる。山の姿を把握していることにかけては古今第一と評される。
李成(五代ー、919ー967)字は咸熙、出身地の営丘(山東益都)に因み“李営丘"と呼ばれる。儒者の家柄の出身で、五代後周の枢密使王朴に招かれて開封にのぼったが仕官を遂げず、淮陽(河南)の客舎で醉死した。遥かな山水の眺望に士大夫の高邁な理想を象徴した"平遠山水"の画風を創始した。代表作は〈茂林遠岫図巻〉(瀋陽、遼寧省博物館)。
北宋山水画の巨人ですね。茂林遠岫図は五分割して模写したので親しみも深いです。導入部を写しているとき平遠山水とはこうゆうものかと納得したのが懐かしいです。
模写した絵はここです。
2025.11.25
「統帥綱領」の引用を続けます。
四、先ず目的を掴むべきだったアイゼンハワー(第53図)
第二次世界大戦の末期、フランスのノルマンジー地方に史上最大の上陸作戦を敢行した米英軍は、アイゼンハワーの指揮下にドイツ西方国境に到達した。ドイツ軍主力は首都べルリンを捨てて南方山地地域に立て籠っていた。
「廃墟となったベルリンは価値なし」と判断したアメリカ軍は、原則どおり、ドイツ軍に向かって殺到した。ソ連軍の方は、「腐っても鯛は鯛」とばかりに、無二無三にベルリンへ突進し、敗残のドイツ軍などは、ほおっておけば自滅するものとして、目もくれなかった。
アイゼンハワーのたった六十度の方向の誤りは、ついに世紀の悲劇である「二つのベルリン」を生んでしまったのである。
ドイツ進攻にあたり、チャーチルはベルリン攻略を主張し、アイゼンハワーは軍事的価値なしとして、この意見をしりぞけた。(チャーチル手記)
・一般方向に関する英米ソ三国間の意見の相違は前にもあった。それは第二戦線を構成する正面についてである。チヤーチルはバルカン半島方面を主張し、ソ連は自国の利益をおかされるのを恐れて、イタリア方面を固持し、アメリカはソ連に同意した。米英軍が、イタリア半島やノルマンジー地方に行なった上陸作戦を、バルカン半島に対して行っていたら、戦後の東西勢力のバランスに大きな変化を与えたであろう。
・名経営者は、自分の予想した方向に情勢をともっていく。従って予想が外れることはない。
普通の日本人の持つ第二次世界大戦のヨーロッパ戦線のイメージは、映画とかテレビドラマとかドキュメンタリーが形作ったものだと思います。爺としては「史上最大の作戦」「バルジ大作戦」「パットン大戦車軍団」「コンバット」など、ハリウッド製がほとんどで独ソ戦は付けたしです。米軍が悪役のドイツ軍をやっつけ、ナチスドイツを終わらせた。そんな感じですね。
ところが事実は大違いで、地上戦を開戦から終戦まで戦ったのはソ連で、モスクワ間際まで攻め込まれながらも押し返し、ついにベルリンを陥落してヒットラーを自殺させました。その時、米英軍はエルベ川までしか達していません。ソ連軍の活躍は相当なものがあったのに、ほとんど知らないままで過ごしていたのですね。
この図や解説を読むと、ルーズベルトやアイゼンハワーの考えが変わると冷戦時代の勢力図がかなり異なる可能性があった事になります。国の指導者の判断ってとっても大事なんだなと思いました。
2025.11.20
「統帥綱領」の引用を続けます。
〇消極的だった文永の役
勝負というものは、こちらが負ければ相手が勝つはずであるが、事実は必ずしもそうではない。苦しいときや恐ろしいときには、双方とも負けたと思いこむことが少なくないのである。
初めて元の来襲を受けた文永十一年(一二七四)十月二十日夜の博多湾沿岸の戦況は第37図のとおりで、元軍(蒙古、漢、高麗の連合軍)は当時の博多の町の南端まで進出し、わが軍は苦戦である。この夜、日本軍は「戦況利あらず」とし、「一応太宰府に後退して反攻の機を狙うべきである」と状況を判断した。
ところが、元軍の方も「上陸不成功」と悲観し、その夜、軍をかえして、海上の船に引揚げてしまったのである。日本軍の意外に頑強な抵抗にあって損害が多く、とくに赤坂高地を固守する(実は逃げられなかった)日本部隊のために、高麗(朝鮮)軍と蒙・漢(蒙古・中国)軍が分断されたままであったことが、戦況悲観の原因だったという。
神風は二十日の夜に来た。
八幡愚童記に「さるほどに夜明くれば二十一日の朝、海の面を見やるに、蒙古の船みな戻りけり」とあるとおり、何度見直しても、日本軍将兵の眼には一隻の敵船もうつらなかった。なお、戻ったのは一部で、大部は沈没したのである。
文永の役で勝ったことになったのは、全く神風のお陰で、日本軍はただ苦戦しただけである。日本軍が苦戦した原因は
一、彼の集団戦闘法に対し、我は個人戦闘法を便っていた。
二、彼は火薬を使っていたが、我は依然として弓矢刀槍しか使っていなかった。
三、彼の兵力二万人に対し、我は六千人しかなかった。
しかし、日本軍最大の敗因は、準備がなかったことと、消極作戦に堕したことである。例えば
一、我が本拠、大宰府は後退に過ぎていた。
二、海岸に防御施設がなく、有名な水城も、海岸より十四キロも後方にあった。
三、戦闘ぶりも、第一線部隊がバラバラに戦っており、司令部の主宰する総合的な攻撃が行なわれていない。
四、戦況を悲観しすぎた。
同じ状況でも名将が見ればチャンスであり、凡将が見ればピンチである。この場合のように両方が凡将であれば、両方ともピンチとみて退却するような奇現象が起こるのである。
〇積極作戦の弘安の役
今度(弘安四年・一二八一)は日本軍もよく準備し、多くの兵(約四万)を集めて、積極的に戦った。
その状況は第38図のとおりで、敵を海岸で撃退して上陸させず、二カ月にわたって海上を漂わせたばかりでなく、さらに積極的に海上に乗り出して、志賀島南方に仮泊している敵船団に攻撃をかけている。
当時の日本軍の気迫は、七百年を過ぎた今日においても、第38図の画にまざまざと現われている。第37図に比較してみると、とくにはっきりする。
弘安の役にも神風は吹いたが、勝ったのは日本軍の実力のためであり、積極作戦のたまものである。
蒙古は神仏の加護で台風が追い払ったというのが爺の常識でしたが、最近はそうではなく鎌倉武士の勇猛さで追い払った説が有力みたいです。文永の役は10月20日の朝から夕方まで勝敗がつかないまま激しい戦闘があり、元軍は勝てないとみて撤退したようです。参集した九州の幕府御家人は朝目覚めたら敵軍が居なくなりあっけにとられたことと思います。
弘安の役の図は東路軍のみの前半戦ですね、この後、江南軍が合流して後半戦になりますが。平戸島から鷹島での攻防戦になって元軍は散々な目にあったようです。大軍をもってしても、準備をよくし、戦意の高い防衛軍を打ち破るのは困難で、それに加え、元軍は補給が期待できないので長くとどまれません。2か月が限度だったのでしょうね。渡海侵攻の困難さ、守った方も石築地の膨大な費用、人的損害など鎌倉幕府の崩壊につながったとか、勇ましい話は結構でも戦争の愚かしさは忘れないようにしたいですね。
2025.11.15
昔、買った古本の「統帥綱領」を最近読み直しました。その中の一節です。
六、目的を占領しないで勝った日露戦争
明治三十七年(一九〇四)二月八日、開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、翌三十八年三月には奉天会戦で大勝利を得たが、大局的にみれば、ロシア軍は外国領内を約三百キロ後退したにすぎず、軍そのものも致命的な打撃は受けていない。
明治三十八年、大挙来攻するバルチック艦隊の一部でもウラジウォストーク港に入れば、満洲軍はもちろん日本国そのものが海上補給をたたれて生きていけなくなり、今までのすべての戦果が水泡に帰する危機に当面したが、五月二十七日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見事に敵の進撃を粉砕して、ロシアの戦意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力はなかった(第45図)。
日本がロシアを屈服させたのは、武力で敵の首府を占領するかわりに、左記の方法で、それと同じ効果をおさめたためである。
一、国際世論に終戦を要望させた。
世界の列強は、日露両国のいずれかを後援していたが、日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けすぎても困る事情にあった。日本の外交工作はこの点をつき、ロシアを終戦に追いこんだ。
二、ロシア民衆に革命を起こさせ、無政府状態を醸成させた(明石工作)。
三、ロシアの戦争資金を枯渇させた(高橋工作)。
この三っがロシアにとどめをさしたのである。
武力だけですべてが解決するものではない。ナポレオンやヒットラーの例をみればよくわかる。日露戦争における我が国の指導者は、すべての点でよくやったと思う。
・ 武力戦の効果に期待しすぎてはならない。(クラウゼウィッツ)
ロシアが大きな侵略を受けて屈しなかったことが二度ある。ナポレオンとヒットラーの場合である。二度とも戦力が健在であり、革命も起こっていない。
ロシアが大して侵略もされないのに手をあげた場合も二度ある。日露戦争と第一次世界大戦である。二度とも軍は打撃を受けて元気なく、政府は革命に脅かされていた。
・ ロシアという国は、それ自身の無力さ、または内部争いによるほか、これを屈服させる方法はない。そして、これを促進するためには、国家の心臓部に衝撃を加えることが必要である。(クラウゼウィッッ)
巨大で複雑な事象を簡単明瞭に記述してますね。これが妥当かそうでないか、ぼんくら頭では判断できませんが大局を見るとはこうゆうことかとは思いました。
2025.11.10
著者は東京大学卒で日立に勤務中、三度目の召集令状を受けます。時は昭和19年の半ば、インパール作戦の失敗後の補充兵としてビルマに送られます。年齢30歳のインテリ兵の誕生です。ビルマ中部マンダレーで速射砲大隊の本部に配属されます。軍隊でも事務は必要でインテリ兵は鉄砲ではなくペンを持って働く事が多いようです。長いですが印象的だったところを引用します。
私は大隊本部に呼び出された。何事ならんと出頭したら、大隊長以下将校下士官が集合している。そして大隊長から、「お前は最近内地からきた。帝大を出て日立に勤めていたのだから、最近の状況に詳しいであろう。話をせよ」とのご命令だった。一等兵が並いる将校を前に講話とは驚いた。再三辞退したが、命令やむをえず、私も肚をきめて思い切った話をした。概要は、まず、彼我生産力の現況比較、日本における工業資源なかんずく軍需資源の不足、本年年初よりの船舶、航空機の喪失率の増大、これらが日本の戦争遂行能力に暗影を投じていること等を、知っている限りの数字をあげて説明した(軍需省などに出入りしていたので、比較的に事情に通じていた)。ついで、説明、質問のなりゆきで次のような意見をつけ加えた。今や日本軍の戦略としては、南太平洋の島々からビルマ戦線に及ぶ広大な戦線をしぼって兵力を集中し、内地からマレーシヤ、スマトラ、ジャバに至る回廊の戦略資源地帯を確保しつつ反攻力強化に向わざるをえないのではないか。当戦線においても、航空機、戦車、重火器の補強が十分に行なわれることは期待できない。今回内地からきた私どもも、兵三人に小銃一丁、門司を出てサイゴンに到着するまでに五十余日を費している。この乾季に入れば英軍はジリ押しに進攻してくると思われ、乾季中すなわち四月末頃までに、おそらく我軍は南ビルマまで退って兵力を集中,反撃態勢をととのえる形になるのではないか。日本の基幹兵器生産力を見るとき、実に容易ならざる状況に立ち至っている。僭越な話だ。当時の軍隊で一兵隊にしては、我ながらよくも言ったものである。だが、それは私としてはすでに常識である。むしろずいぶん言葉を飾って言ったくらいだ。どうせ死ぬんだと無神経になっていたのかもしれない。 ところが、聞いた面々、怒るやら驚くやら、たちまち罵声、怒号の雨だ。 「このバカヤロー。内地の奴らがそんなダラケタこと言ってるから、俺達が苦戦するんだ」「俺達はもう一度反撃してインパールを取り戻し、デーリーを陥落させるまでやるんだ。何を言うか」と散々な有様だ。その文句は今でも耳に残っている。この人達は本気でデーリーまで行けると思っているのだろうか、と私は腹の中であやしんだ。私は悪びれず、「実情を話せと強っての仰せだったので、正直に申し上げただけです」と取り合わなかった。この人達も結局は私と同じく、本当の事は何も知らされていないのである。 さすがに大隊長や主だった将校は黙然としていた。こんな暴言を吐いたにかかわらず、その後、将校も下士官も、私に対して「反動」すなわち悪く扱う気配は少しもなかった。むしろ私をかばってくれた形跡がある。そして間もなく早々と上等兵に進級した。
兵器の進歩はすさまじく、日本軍の速射砲は新しい戦車には有効でなく大損害を受けて敗退した人たちで、対抗できる速射砲と十分な弾薬があればこんなことにはならなかったと思っているところに厳しい現実を突きつけられて怒ったのでしょうね。怒っても制裁を加えなかった冷静さがあるのにも心打たれました。
2025.11.05
昔読んだ本で、トヨタがアメリカに進出するのでクラウンを持ち込み大陸横断をしたがエンジンが壊れて対策に追われた。これも昔読んだ戦記物で、潜水艦で運ばれてきたドイツの飛行機を整備した日本兵が、自分らの飛行機の部品はやすり掛けしたり変形させたりしないと入らないが、ドイツのはすぐにぴったり入ってビックリした。というのが記憶にあります。クラウンは長時間の連続高速走行の性能が無かったのは、エンジンの工作精度が足りなかったのでしょう。旧軍の飛行機や戦車も工作精度が悪く、優秀な整備兵の努力で性能を発揮していた様子がうかがえます。日本が本物の工業力を持てるまでは長い時間をかけてやっとできたのでしょうね。物作りの大変さを思います。
記憶はあやふやですが「トヨタ自動車75年史」によると、1957(昭和32)年8月見本車のクラウンとクラウン・デラックスの2台を受け取り、販売店へのお披露目を兼ねながら試験走行を行った。とあり、輸出を強行するも問題だらけで、当面はランドクルーザーのみにして、問題のない車の完成を待ったそうです。
そして準備不足のままに設立され、困難な経営を強いられてきた米国トヨタも雌伏8年、ついに米国適合車である新型コロナを得て、浮揚のチャンスをつかんだ。販売店数は、1964年末の200店から、1965年に384店、1966年には606店へと急速に増加し、販売体制を再構築する時期が到来していた。 今を時めくトヨタも苦労していたのですね。図は、その時の船積みの写真を写したものです。牧歌的とでも言えますね。
2025.10.30
百円ライター又は使い捨てライターを分解したものです。安価な製品ですがばらしてみたら部品点数は意外にありました。
発火部分と燃料部分に分かれ、両方とも金属と樹脂それぞれあり、ガスの噴出部は真鍮で精密に加工されています。ガス状の可燃物を扱うので当たり前のことでしょうが百円にもかかわらずデリケートな製品なんだと感心してしまいました。
こんな製品でも物作りの大変さを感じますね。これは中国製で日本では百円では作れないのでしょうが、なんでも中国製にはならないように、物作りの伝統を無くさないでもらいたいなぁと思いました。
2025.10.25
新作家展に出品したもう一つの作品です。これも上野公園の花見の時のものです。桜の花の下は人で一杯です。溢れた人達が木陰を求めて三々五々に散らばっていました。
エドゥアール・マネの「草上の昼食」は森の中で二組の男女がピクニックをしている絵でとても有名です。中央下のグルーブを描いているとき、その絵を思い出しました。マネの描いたのは人物主体の絵で、しかも女性の一人が裸体でこちらを見ています。卑猥さは無く何を意味しているのだろうかと考えざるを得ないし、一度見たら忘れられないものです。この絵とは真逆なものなのですが、座って団らんしているグループを描く行為が強い印象を受けたものをよみがえらせたようです。
2025.10.20
都美館で開催中の新作家展に出品した作品です。木製パネルに和紙張りして薄墨を重ねて仕上げたものです。今年の春、上野公園で撮影した一カットをほぼそのまま描いています。
華々しいところは皆無、「ふぅん」と通り過ぎてしまわれそうですが、小生の絵を見ると「なんかホッとする。」と言ってくれた友人がいて、この絵もまたそう思われると嬉しいですね。
公募展は国立の新美術館が出来て大きい団体は都美館から移りました。建設年代の差で、建物規模が大きくなり、展示室も巨大で明るく輝いています。何年も前に亡くなりましたが当会の代表が「当会のような穏やかな絵は新美術館の壁にめり込んでしまうので都美館に残る事にした。」と言れましたが、この絵を飾って柔らかい光が当たっている様を見ていると代表の言ったことが心にしみて来ました。
2025.10.15
前回の続きです。
アジアの焼畑農耕民はすべて山に棲んでいる。と書かれていてこの図があります。
山稜住居から山腹住居へ、そして谷間住居へと進み、規模が拡大し生産量が増えるものの、余剰生産物は少なく統一国家には至らないが、アジアにはもう一つの型のイネ作農業があって平地水田農業で統一国家を生み出すことができると記載されています。農耕が始まり、余剰生産物が出来て、小さな集団がクニになり、さらに帝国になるという、古代史を読んでいるような気分にもなります。
図の谷間住居は日本が例示されています。弥生時代の初めは平地の開発は力足らずで、谷間の小さな土地を段々畑にしてイネ作農業をしていたのかなぁと思います。縄文人も最近は農業をやっていた。栗林を管理していたとか、その他の植物も発見されて研究が進んでいるようです。山稜とか山腹住居を構えていたのでしょうか。
飛鳥時代は谷間ともいえなくはない飛鳥が中心で、なんでこんな辺鄙なところが中心だったのかと不思議でしたが、当時は奈良盆地を灌漑して農耕するだけの力が無かったのかなぁと思いました。飛鳥時代の帰化人が大規模灌漑の技術を伝え奈良盆地を開発して奈良時代になったのでしょうね。
2025.10.10
前回の続きです。図の緑部分を照葉樹林帯といい、この地域に共通する文化を照葉樹林文化と名づけたそうです。東南アジアの熱帯降雨林地帯の北方、主に大陸のインドシナ半島の脊柱の山脈の上から、北方にむかって、温帯性の森林地帯がある。この温帯林は常緑性のカシ類を主力とした森林で、日本でいえば、クス、シイ、イヌグスなどのような、濃緑色の光った葉を持つ密生した森林となる。この森林は東アジア独得なもので照葉樹林と呼ばれる。東南アジアの熱帯降雨林の中でおこった根栽農耕文化は北方に伝播し、温帯林である照葉樹林帯に到達すると、環境の変化に応じておのずから農耕文化基本複合の変化をおこしてくる。いまや純熱帯性のバナナの栽培は不可能である。ヤムイモでは別の温帯性の野生種から栽培種を作りあげなければならない。タローイモの中からは、サトイモの一部だけが温帯で栽培できるだけである。照葉樹林の中で、こうして発達してきたのが照葉樹林農耕文化複合である。この文化は熱帯のものより根づよく、高度に成長していくことになった。その文化は、農耕文化複合以外の文化複合の上からも把握できるので、ここでは照葉樹林文化と呼ぶことにする。と解説されます。
この地域は山岳地帯でもあり、山に住いするのを厭わない人々が定着し、焼畑農法で陸稲も栽培したそうです。
この本は文化の伝播を述べても人の移住は触れていません。縄文人はこの文化の中にいたのかあるいは弥生人からなのかと知りたくなりますが答えはありません。ブータン人は日本人そっくりですが、この緑の帯の両端に住んでいるのも気になりますね。
2025.10.05
昭和41年出版の中尾佐助著・岩波新書「栽培植物と農耕の起源」からの図です。こんな内容を書いた本はまだどこにもない。とあとがきに記されています。中尾教授はテレビの教養番組にもよく出演されてた著名な植物学者です。今と違ってテレビも文化的でした。社会人類学者の中根千枝教授とか印象に残っています。
世界を農耕文化複合という概念で分類すると、「根栽」「サバンナ」「地中海」「新大陸」農耕文化の四つがあり、記載順に発達した。というのが教授の説です。イネが入ってませんが、サバンナ農耕文化の人たちが雨量の多い地帯にはいっていき湿地性雑穀を栽培化したのがイネだそうです。アフリカ起源とより重要なインド起源があるそうです。今では世界に広まっていても中国・インド・バングラデシュの生産量は全世界の6割を占めているそうです。
組み合われた栽培植物の育て方や収穫法、調理法、それらに使う道具や使い方、儀礼などをセットで考えるのが農耕文化複合というらしいです。起源地で出来上がったものが伝播して広がったそうです。
2025.09.30
前回のアップルハウスの内部です。人にポイントを当てて視点モードにするとその人の見ている景色になります。棒立ちしていると思ったので、実際はどうなっているのか気になり入口近くの人を捕まえて視点モードにして確認です。
出入りする人が居るのは当然としても、入室してしばらくたつと別の場所に移動していました。動き回りはしないものの時どき位置を変えているのですね。そして、信号待ちの人がスマホを出してみたり、しゃがんで靴ひもを結んだりするのですが、店内でも同じことをしていました。店内ではおかしいだろうと突っ込まれそうですが、店内まで確認する人は居るはずもなく商品を取る様な高度なことはあるはずも無いし、妙な動きでも見ていて楽しかったです。
2025.09.25
Cities: Skylinesで人口10万人の市街地の一コマです。10万人が出歩くわけではありませんがかなりの人が外出して中心部は人混みになります。
画像はアップルショップですが、前面はガラス張りで店内の様子が見れる設定です。30人ぐらいは居そうですね。この人たちが店内を歩き回り商品を触ったりすると実生活そのものですが、さすがにそこまではしなくて棒立ちのままです。市販の民生用コンピュータで出来ることはこの程度だとも言えますが、ここまで出来るのかという驚きがありました。小生はパソコンが当たり前にあった若い人でなく、じじいなのが明確にわかりますね。
2025.09.20
9月15日にアメリカ軍岩国基地で巡航ミサイル「トマホーク」と対空ミサイル「SM6」を発射できる「タイフォン」を公開したニュースを見ました。
上の画像のように指揮管制車とミサイル発射車4台で16発を一度に発射できるそうです。射程1600kmで核弾頭も積める兵器が突然日本に配備されたとビックリしましたが、さすがに常駐ではなく米軍と陸上自衛隊による定例訓練「レゾリュート・ドラゴン」による一時的なものだそうです。 ただトマホークは亜音速で迎撃されやすいそうです。かなり古い兵器なんですね。一方ロシアでは中距離極超音速ミサイルシステム「オレシュニク」が量産され初めウクライナで使われました。雷光が落ちるような感じで迎撃不可だと言っているようです。米軍は圧倒的な軍事力でかなう者はいないような感じでしたが、時は移り、露中は新兵器開発が進むものの米は上手くいってないのかなぁと思う今日この頃ですが、角突き合わせても力づくでなく外交の力で丸く収めてもらいたいものです。
2025.09.15
前回の続きです。スペイン美術展の目玉はゴヤ、グレコ、ベラスケスでそれぞれ数点が出品されていました。あまりにも有名で目立ち、それぞれの個性が明らかで素晴らしい作品と思いましたが、15点も出品されている作家の、ぎごちないけれども揺るぎのない存在感に惹かれ、その作者、スルバランの名も覚えたのです。
フランシスコ・スルバラン(1596-1664)は17世紀初頭のセビリア派のレアリスムに属し、厚く折り畳まれた衣装の襞と彫刻のように重々しい身ごしなし、強い彩色、それに単純な構図は一見古拙であるが、かえって素朴な真実さと神秘性を強調している。素朴といってよいほど単純な形態を垂直線や平行線の強調された安定した構図に組み入れた、沈黙と強烈な精神性との支配する画面は、キュービズムとシュールレアリスムを経験した今世紀になって、はじめて十分に再評価された。と解説されています。
この解説を読むと、スペイン人にとって、ゴヤ、グレコ、ベラスケスは別格だけれども、スルバランは当時のスペインを表しながらも現代の精神をも内包している特別な作家なのではないかと思います。そんな作家に心惹かれたんだなぁと嬉しくなりますね。
2025.09.10
1970年に東京国立博物館で開催された「ゴヤ グレコ ベラスケスを中心とするスペイン美術展」の図録とアサヒグラフ増刊です。表紙はどちらもゴヤですね。ベラスケスにして欲しかったなと思いますけど。
大学を卒業して社会人になったばかりでした。巻頭のあいさつに「ほぼ3000年にわたるスペイン美術の全体像を紹介する目的で構成されたものです。」「黄金の世紀と呼ばれる十七世紀に焦点を当ててあります。」とあるように、宗教画・宮廷画の大作を沢山見れました。人生初めての経験で、油絵てこんなに巨大で重々しい質感なんだ! と圧倒されました。
記憶では壁面一杯になる程の大きさでしたが、図録のデータを調べると最大で2.65×3.18mです。思っていたよりも大きくない! またしても記憶の不確かさが露呈しましたが、それほど驚天動地の出来事だったのでしょうね。ミロのビーナスといい若い頃の経験は格別です。
2025.09.05
古い絵です。30代になった頃かなとも思います。場所は山梨県の日野春です。この絵の右側奥に八ヶ岳が聳えて、谷間から望み見る形で絶好の写生地なのです。そうなのですが、川上尉平先生の教えに石一つでもしっかり見て描くのが大事とあり、材料が多すぎて手が出せなく小山をしっかり描こうとしたのです。
頑張って描いたものの、手前の道や段差はまだしも、肝心の山のボリュームが出ません。枯草や小さな落葉樹の群れ、山頂に残された杉林はぺっちゃんこです。中央の茶色が丸く膨らんでくれたら絵になると苦心したはずですが力量不足となりました。
イーゼルを立てたのは真冬の谷間の小川近くです。その場所からの眺めが気に入ったのですが、描き進めているうちに後悔しました。川風の冷たさが半端でないのです。身体が冷え込んで居ても立っても居られなく、足踏みしたり、少し走ったりして身体を温めたのを思い出します。
初心の頃はそんなキツイ場所は敬遠して選ばなかったのが、欲が出てきたらキツイ場所でも平気で描くようになったのでしょうね。
2025.08.30
1964年に国立西洋美術館で開催された「ミロのビーナス特別公開」の図録の見開きページです。もうすぐ17才の高校三年生でした。
遥か昔の事ですが東京オリンピックの年でもあり、ミロのビーナスも大騒ぎしたのでこの観客が押し寄せた特別展に行ったのはよく覚えています。報道では、行列は美術館を三周りも取巻き、4時間待ちになっているとのことでしたが幸いにも3時間で入場した記憶です。
特設会場に入ると中央に置かれた高い台座に鎮座したビーナスを行列の動きのままに見上げながら一周しました。2メートルもある大理石像の大きさに驚き、衣の荒々しい造形とお尻の割れ目のなまめかしさに仰天させられたのを忘れられません。
2025.08.25
1973年に東京国立博物館で開催された「ドイツ民主共和国ベルリン国立博物館所蔵古代オリエント・ギリシャ展」の図録より、アッシリア帝国の玉髄製円筒印章です。
このような展覧会はいくつも見ていて名品の実物をかなり見ているのは確かです。少しは身になっていて欲しいですが何を見たのか思い出せないのが無念ですね。
記憶にあるのはペルガモン博物館内にゼウス祭壇が復元されている写真です。壁面装飾のレリーフだけが本物で建物は再現したもののようですが、こんな巨大なモノを見せているんだと仰天したのですね。それと同時にトルコ帝国が国外持ち出しを許可したことにも驚きがありました。古代の遺物展示は盗賊行為の証拠でもあると、聞いたこともあります。一方、放置され消滅するのを防いだ功もあるとの説もあります。悩ましい問題なのでしょうね。
2025.08.20
芥子園画伝山石譜
巨然の模写です。
巨然
巨然は董源の正統の画法を受けついで、その筆墨は新鮮ですぐれており、巧みに霞のたなびく山なみを表わした。若いころは礬頭(一群の小石塊)の多い山をよく描き、中年には山は嶮しくなり、晩年には低くしかも風格の高い山となった。その峰巒の頂上の窪みや麓の林の間に卵石をよく描いているが、この特徴はよく覚えておこう。
巨然は南唐滅亡後、宋の都・開封にある開宝寺に画僧として住し、翰林院玉堂の正壁に「煙嵐暁景」を描いて名を知られたそうです。董源・巨然の山水画として紹介されることが多いようです。10世紀後半の人で、日本は藤原時代にあたり道長が登場する前の頃でしょうか。
2025.08.15
若年の時、美術出版社の画集で古代からのヨーロッパの教会を写真と図面であらわしたものを見ました。モノクロ印刷でしたが、ゆったりとした編集で、上品で美しい心にしみるものでした。その中で平面図が黒々としているのに違和感を覚えました。建築の平面図は興福寺東金堂のように点と線になるとの思い込みがあったのですね。
日本は古来から木造建築でした。近代になり鉄筋コンクリート造になっても、柱と梁の架構式で柱は太くても壁は厚くなりません。壁は薄いものだという観念が染みついていたのですね。
黒黒と描かれているのが壁だと気づくのに時間がかかりました。そして、気づいたとき組積造の壁ってこんなに厚いんだって目から鱗が落ちる心地がしたのを覚えています。
なんだ、当たり前のことを大仰に書くなと言われそうですが、常識の一つがひっくり返ったのですから当人にしたら驚くべきことだったのです。
2025.08.10
2005年に描いた真鶴半島です。ずいぶん昔になりましたが今もほぼこのままですね。真鶴半島は「お林」と言われ松や楠などの巨木の森です。江戸時代に萱原だった半島に小田原藩により15万本のマツ苗が植えられたそうです。明治維新後は皇室御料林に、昭和22年に国有林となり昭和27年に真鶴町に払い下げられたそうです。明治37年には森林法に基づく「魚つき保安林」にも指定されていますし大事に守られて来たのが分かります。
半島の土台は安山岩質の溶岩ドーム群ですので海岸線は黒っぽい岩で囲まれています。小生の絵でもそうなっていますが、これが全くなく緑がそのまま海に連なっている絵を見たことがあります。こんな目立つものを見逃すなんてありえないと吃驚仰天ですが、よくよく考えると現場で写生していても自分のイメージを優先して描く人で海と森しか目に入らなかったのではなかろうかなどと妄想したことがありますね。
2025.08.05
日清戦争時の外務大臣陸奥宗光の肖像です。
陸奥宗光は日清戦争の外交史ともいえる「蹇蹇録」を残しました。李朝への働きかけや、露、独、英、仏、米との外交交渉、清との講和交渉、ついで三国干渉とその受諾まで、深謀熟慮で乗り越えたのが実感できる内容です。
日清戦争終結にあたり下関で交渉が行われます。日本は全権大臣、伊藤博文総理と陸奥宗光外相、対する清国は李鴻章です。ジェフリー・サックス教授が引用した中国の外交官は李鴻章で、日本側は伊藤と陸奥の二人ですね。伊藤と李は旧識であったため一日目の正式な交渉終了後に数時間に及ぶ会談をしたそうです。下記の岩波文庫からの抜き書きはその時のものです。
彼は日清兩國は亞細亞洲内に於て常に歐洲強國の猜眼を逃れざる兩大帝國なり且つ兩國は人種相同く文物制度總て其源を異にせず今や一時交戦に及ぶと雖も彼我永久の友誼を回復せざるべからず幸に今回の干戈息止するに及べば啻に從來の交際を温復するのみならず更に進で一層親陸なる友邦たらむことを冀ふのみ抑々今日に於て東洋諸國が西洋諸國に對する位置如何を洞知し得るは天下誰か伊藤伯の右に在るものあらむや西洋の大潮は日タに我東方に向て流注し來る是れ實に吾人協力同心して之を防制するの策を講じ黄色人種相結合して白皙人種に對抗するの戒備を怠るべからざる秋に非ずや但し今囘の交戰は幸に此兩帝國が天然的同盟を囘復するを妨げざるべきを信ずと云ひ又彼は日本比年の改革事業を賛揚し一に是を伊藤總理為政の宜しきを得るに由ると稱し清國の改革未だ其效を奏せざるを以て自己才略の短なるを歎じ更に語を繼ぎて今囘の戦爭は實に兩個の好結果を收めたり其一は日本が歐洲流の海陸軍組織を利用し其成功顯著なりしは以て黄色人種も亦確に白皙人種に對し一歩も譲る所なきの實證を示し其二は今回の戰爭に依り清國は長睡の迷夢を覺破せられたるの僥倖あり是れ實に日本が清國の自奮を促し以て清國將來の進歩を助くるものにして其利益洪大なりと謂ふべし故に清國人中には荐に日本を怨恨し居るもの衆多なるに拘らず余は却て日本に對し感荷する所多しと思ふ且つ前述したる如く日清兩國は東亞の兩大帝國にして日本は歐洲各國に恥ぢざる學術智識を有し清國は天然不竭の富源を有す若し將來兩國相結託するを得ば其歐洲強國に敵抗するも亦甚だ難事に非ざるべしと云ひ之を約略すれば彼は荐に我國の改革進歩を羨慕し伊藤總理の功績を賛美し又東西兩洋の形勢を論じて兄弟閲牆外侮を招くを戒め日清同盟を説きて暗に講和速成の必要を諷するが如し其所論は今日東方經世家の談としては家常茶飯の談のみ然れども彼は縱横談論努めて我同情を惹かむとし間々好罵冷評を交へて戰敗者屈辱の地位を掩はむとしたるは其老猾却て愛すべく流石に清國當世の一人物に恥ちずと云ふべし
2025.07.30
体長2センチぐらいのアオドウガネです。大きいので見栄えが良いのですが栄えているので貴重感は全くないですね。人間は身勝手なものです。捕まえたのではなく拾った個体です。脚を触ると自由に動かせました。自分で動かないのでエネルギーが尽きていたと思います。ほおっておくと硬直するものの、すぐに成型すれば楽に作業できるのがありがたいです。
脚先は尖った爪で花とか葉っぱや茎に引っ掛け易い形です。草花のあちこちに引っ掛けて動き回るのが得意のようです。何度もそれを見て器用に動いているなと感心したものです。ちょこちょこした飛行は不得手で草花間のような長距離移動だけ飛行していると思います。重い体をやっと飛ばしているような感じです。虫様々です。
2025.07.25
毎日毎日、暑い日ですね。テレビは危険な暑さと連呼しています。しかし今の世は室内に居ればエアコンという文明の利器がありますからね。危険なのは屋外で動き回る時に限られるのでしょう。とはいえ、家の中でじっとしていると体調が狂ってくるので、日がかげるのを待って散歩に出かけることもします。そして、なんとか一時間ばかり歩いて十分に汗もかいて帰ってくることが多いです。
写真は、そんな中、歩道にひっくり返っていたクロカナブン君を発見、お亡くなりになっていたので脚は死後硬直で閉じていたのを熱水で柔らかくして伸ばしたものです。カナブンは緑色から褐色など色とりどりですが黒いのもいるのですね。初めて見ました。
2025.07.20
前回の続きです。
明治維新政府は1871年に、世界中に主要な大臣たちを派遣し彼らは18ヶ月間世界中を巡回し、「岩倉使節団」と呼ばれました。そして彼らは、誰があらゆることにおいて最も優れているかを研究しました。誰が最も優れた憲法を持っているか、誰が最も優れた大学を持っているか、誰が最も優れた軍隊を持っているか、など。そして彼らはすべてのモデルを採用し、それを見事に適用しました。1877年の西南戦争という小さな反乱はありましたがそれ以外は平和でした。それは最も成功した変革であり、日本は工業化を遂げました。
しかし、私の主張はこうです。工業化が進むにつれ、日本は1894年に中国を攻撃しました。そして、中国と日本の二人の代表的な外交官が会談しました。エズラ・ヴォーグルはこの話を本の中で語っています。そして中国の外交官は落胆している。私たちはアジア人です。我々はヨーロッパ人によって侵略されている。なぜ私たちを攻撃したのですか。そして日本の外交官は「残念ですが、我々は彼らの仲間入りをしました。」と言う。まさにその通りです。2025年を迎えた今、日本と中国はこういうべき時です。「我々はこの件で一致している。米軍基地は必要ない。部外者によって分断される必要もない。理由などない。脅威などない。中国は日本を侵略するつもりはない。それだけだ。脅威などない。」
欧米は帝国主義で世界を植民地化しましたが、日本もその仲間になったわけです。朝鮮を併合し満州は生命線だと満州国を設立したものの、それでは足りず北支に手を伸ばし中国と戦争になりついにはアメリカとの戦争になり破れます。
工業化に成功した中国が帝国主義をとらず、また日本も中国に敵対せず互いに結びつきあう未来をアメリカの大学教授が勧めているのに感銘を受けます。
2025.07.15
youtubeでクアラウンプール・サンウェイシイティでのジェフリー・サックスコロンビア大学教授のシンポジウムを見ました。8分程度の切り抜きでしたが、以下その一部です。
二千年間中国は日本を侵略していない。1274,1281年に侵略したのは中国を支配したモンゴルだ。日本は2度侵略した。気の狂った秀吉が朝鮮侵攻を初めとして世界を征服しようと決めたときと、1894年から第二次世界大戦まで何度も。それ以外は象徴的ではあるものの完全に平和的な貿易と貢物の平和的なシステムで戦争はなかった。
皆さんが団結すれば必ず世界経済を支配できる。日本のスキル、韓国のスキル、そして中国のスキルにアシアンのスキルを組み合わせれば太刀打ちできない。なぜ、あなたたちはまだ分裂しているのか、それを試すには外交が鍵となる。外交は話し合いを意味し、テーブルと椅子2脚が必要だ。軍事には年間1兆ドルが必要だ。どちらかお得だと思いますか。
粘り強い外交で成し遂げられる平和は尊く戦争はあほらしいということですよね。
2025.07.10
大岡昇平は昭和19年3月教育招集で東部第二部隊に入隊、6月教育召集の解除と同時に臨時招集を受けてフィリッピンのマニラに輸送されます。戦局は厳しく35歳の兵隊の誕生です。画像は召集前の記念撮影から。入隊から輸送船で出航するまでは「出征」に書いています。以下その引用です。
九段から品川駅まで40キロはある完全軍装で行軍、列車を待つ間に神戸住まいの家族が現れます。死出の旅路にやっと間に合ったわけです。
妻は白い単衣に下の男の子を紐で背負い、上の女の子の手を引いて歩道に立っていた。髪と衣服の汚れと乱れは、十間以上離れてもよく見てとれた.私はこの妻の姿に私が死んだ後の彼女の姿を見たと思った。同時に妻の方では変わり果てた私の姿に、「死」を見たといっている。
先に涙を流したのは私である。涙は汗と一緒に流れたので、私はそれを手拭いで顔ごと拭き取ることができた。妻もやがて顔を左右に反けながら黙って泣き続けた。そして我々はやはり何もいわなかった。この場面は「大岡、かあちゃん、品川駅頭涙の別れ」といって、以来長らく分隊のお笑い草だったものである。
弱兵の部隊は現地軍から要らないといわれミンドロ島の警備に着きます。米軍は上陸し戦闘になり敗走しますが、大岡はマラリアで落伍し意識不明状態で捕虜になります。死を覚悟して生き残ったインテリが戦争にどう向き合ったかを多くの小説で残しました。
日本は平和憲法で戦争は無縁と思っていましたが、いつの間にか敵基地攻撃など言い始めてきな臭くなっているので、今こそ大岡の小説を読んでもらいたいものです。
2025.07.05
冷戦真っ盛りの頃、核兵器の恐怖を描いた映画が数多く作られました。「渚にて」とか「五月の七日間」とか、黒澤明も「生きものの記録」を撮っています。実際、キューバ危機もありました。
まじめなものが多かったのですが、1964年、スタンリー・キューブリックは奇想天外な「博士の異常な愛情」(原題 Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)を発表。正気を失った戦略空軍の司令官がソ連への報復攻撃を命令と書いてきて長くなりそうなので止めにしますが古びてないし抜群に面白いです。終末近く落下する核爆弾に跨った機長がカウボーイハットを振りかざしているシーンだけでも想像を絶しますが、この人がこうまでして任務を完遂する人柄や能力が納得できますし、登場人物の全てにリアリティがあって人間の愚かしさをひしひしと感じるものの、ブラックコメディ調で笑い飛ばせるので後味は悪くないです。
それから半世紀、イスラエルとアメリカがイランを爆撃し休戦になったもののイランの核武装も現実味を帯び、中東の核ドミノも有得るとか物騒なことです。気違いに核兵器にならないことを祈ります。
2025.06.30
残り一週間ですが亀の歩みですね。隣は2008年に描いた林の絵です。ここ。。初めてのF130号で油絵なので描いては乾かしてを繰り返すので時間は掛かりましたね。その点、水墨は連続して描けるので待ち時間はないです。ただ薄墨なので重ねの回数がはんばでなく、形が現れるまで大変です。やり過ぎると戻せないのと、微妙な濃淡が空気感をもたらすのではないかと思っているのです。形ではなく空間とか気配とかを表したいのかなぁなどとも思います。「気」という言葉もありますしね。なにか分かりませんが憧れがある様な気もします。
2025.06.25
まだ始めたばかりの絵です。7月初めのグループ展に出品するので、残り二週間、気張らないといけないですね。場所は今年4月の上野公園です。花見真っ盛りで、画面右奥は桜があり大勢の人が楽しんでいますが、ここは楠でしょうか巨木の下、花なしででも少数の人たちが集っていました。
写真を見ているときには気づかなかったのですが、花見客を描きこんでいくとレジャーシートの端に靴が揃えて置いてあります。当たり前ですけど行儀良くて、いいなぁと思いました。また、外国人だけのグループを見ると、観光でなく住んでいるんだろうなぁと妙な気分にもなりました。
2025.06.20
芥子園画伝山石譜李唐の模写です。
李唐
李唐は李思訓の皴法をさらに発展させ、筆力を揮って自在にこれを用い、小斧劈皴に変化を加えて大斧劈皴を作りあげた。北宋の徽宗皇帝は「近ごろの李唐は李思訓にも劣らない」と評価し、このために当時は「二李」と呼ばれた。 劉松年はもと張敦礼を師として学び、すぐれた審美感の持ち主で、その師よりも高い名声を得た。後に二李の大斧劈皴と小斧劈皴を融合して独自の皴法を作り出した。
北宋の末期の人で、北宋が金に押されて南宋になった時に南北両宋の山水画を結びつける役割を果たしたそうです。
日本は平安時代で院政が始まる頃です。豊かな時代に成長し、動乱期に翻弄されながらも山水画の伝統を守った重要人物のようです。
2025.06.15
F30の森の絵の二枚目です。題は変わらず樹叢です。墨を薄めて何度も重ねて濃淡をあらわすやり方で、紙の滲みも大きくてぼんやりとしか表現出来ません。滲みはドーサを引けば防止できますし、墨も濃いままで使えばメリハリの利いたものになります。油絵の時は葉っぱの一枚一枚にこだわって描いていましたから真逆になっているのです。
我が事ながら豹変ぶりに驚きます。どんな心境の変化があったのか、なぜそうなのか謎です。説明できません。思うに人の心は謎の塊なのでしょう。
2025.06.10
2012.12.25に掲載した図です。
この頃は昆虫の体の成り立ちを熱心に調べていて脳の真ん中を食道が貫通しているのを発見、仰天したりしていたものです。それに感動し図解したものと思われます。
生物進化の系統図を見ると先端は、新口動物では哺乳類と鳥類で旧口動物は節足動物と軟体動物です。
節足動物の昆虫は古生代シルル紀に誕生、陸上進出もして、ペルム紀で爬虫類とともに多様化、その後、新生代新第三紀で再び多様化、第四紀で繁栄して現代にいたるという経過で、進化の先端にいるのは確かです。(数研出版生物図録による。)
華麗なる進化をして繁栄しているのは間違いないですが、これ以上の進化はしない最果ての地にいるのかいないのか悩ましいところですが、ファーブル先生が現代に生きていたらどう考えるのか想像するだけで楽しくなります。
2025.06.05
ハエ目クロバエ科キンバエ族らしいです。俗にギンバエといわれるばい菌の運搬者の嫌われ者ですね。そうは言っても金属光沢はなかなか美しいです。青系統はよく見ますが金系統は珍しいので楽しく撮影したと思います。(10年前の写真です。)
高校の図書室にあった緑色硬表紙ファーブル昆虫記(10巻ぐらいか)を借り出したのを覚えています。昆虫の行動は生まれながらに確定していて変更の余地はない完全体というのがファーブル先生の結論でダーウィンの進化論は認めていなかったそうです。一例として狩バチの子育て用の獲物数は決まっていて、蓄え中に横取りされても補充はしない。全てが本能のままなのがこれでもかというぐらいに観察、実験例が積みあがっていて驚嘆しました。その後、いろいろ読んだり見たりして、昆虫は古生代から生き抜いた進化のはてに達している生物というイメージが浮かぶようになりました。
2025.05.30
この頃は散歩に出ても昆虫の姿をほとんど見ません。気を付けて探してもなかなかです。どうなっているのでしょうね。そんなこともあって昆虫観察が疎かになっています。それではイカンと、昔の写真を引っ張り出して意欲を奮いださせようと言うわけで、水吸いのコバエ君の登場です。
ハエは嫌われ者ですし、初めのころは拡大して見るとギョとしました。気持ち悪いものでしたね。それがいつしか、脚を上手く使って身づくろいをしている姿や、水吸いの場面などを見たり、解剖したらどう見ても花粉にしか見えないものを消化器官にいっぱい発見して花粉食のハエも居るんだと気づいたりするうちに可愛らしくなってきて常識と違ってきたのを面白く思ったものです。
2025.05.25
芥子園画伝山石譜 王維の模写です。
王維
王維ははじめてせん淡(水墨の濃淡によるぼかし)を用いて、鉤斫の法(輪郭内に着色を施す画法)を一変した。かくして文人画は王維に始まり、これを南宗とする。この系統は董源、巨然、李成、范寛を正統の継承者とし、荊浩、関同、張そう、畢宏、郭忠恕もまたこの様式を学び、宋代の米ふつ、米友仁、王晋喞(王せん)、季龍眠(李公麟)、〔元代の〕趙孟ふはすべて巨然を学んだ。元末の四大家の王蒙、黄公望、倪さん、呉鎮もみなその直系であり、明代の文徴明、沈周もまた遥かにその系統を受け継いでいる。
芥子園画伝は清朝初期の康煕年間に着色木版で出版され、後に石版刷りの複刻本が広く流布したそうです。模写しているのはある複刻本の頁を縮小して載せ、それに日本語訳文をつけた体裁です。
中国絵画に精通していると腑に落ちる事ばかりなのでしょうが、そうでないのではてなのことばかりですね。(文字化けは、かなにしました。)
2025.05.20
芥子園画伝山石譜 李思訓の模写です。
李思訓
これは小斧劈皴である。筆づかいが力強く、北宗の様式とする。李思訓は大李将軍と呼ばれ、金碧(緑青や群青で着色、金泥で輪郭や皴を描き加える画法)を用いて一家をなした。この画法は柔らかい中にしっかりした骨組があり、豊満の中にも凜々しい気勢が窺がわれる。後世の画家たちが極彩色の画を描くのに、この方法を手本にしているが、とても夢だに及ばない。子の李昭道はその画風をやや変化させ、構想や筆力はやや父に及ばないとはいえ、やはり十分に伝える価値があり、一般に小李将軍と呼ばれる。 宋代の趙幹、趙伯駒・伯しゅく、馬遠、夏珪、李唐、劉松年たちはみな李思訓を範としている。元代の丁野夫、銭舜挙(銭選)、明代の仇英もみなこれを学んで、技巧は習得しているが、雅趣の深さは得ていない。 戴文進(戴進)、や呉小仙(呉偉)や張平山(張路)にいたると、次第に悟りそこないの野孤禅に陥り、北宗の伝統は地に堕ちてしまった。
中国は文字の国で、伝来された作品はわずかでも、残された文章を基に書いているのでしょうか。
2025.05.15
40年前の房総太海駅と現在の真鶴駅です。写生旅行などで地方に行くと木造平屋建ての駅舎を良く見ました。旧国鉄は巨大な官僚組織で、地方に建設される駅舎であっても中央の基準で厳しく統制されていたのではないかと想像していたのですが、ふたつを見比べると太海駅の方が大きくて立派ですね。画一的でもなかったようです。
太海駅は今どうなっているかとグーグルマップで調べたら瀟洒な駅舎の無人駅でした。一方、真鶴駅は、老骨を鞭打つような駅舎でも複数の駅員がいて、向かって右にコンビニを増築して便利さも増しており、まだまだ現役が続きそうです。
2025.05.10
1987年の夏合宿では描いた場所も全く思い出せませんが油絵も描いていました。F30で四角に近い縦横比で平坦地を描くには適していません。相当悩んで段差のある場所を探し出し俯瞰図的な構図をとったのだと思います。我が事ながらあっぱれと言ってあげたいですね。
2025.05.05
1987年8月22日、夏合宿のスケッチです。曜日を調べたら土曜日でした。合宿は金曜日からなので二日目ですね。初日は現地を歩き回ってスケッチをして写生地を決める。2、3日目は油絵を描く。最終日の4日目は出来るだけ頑張って仕上げる。という手順だったという記憶しかないのですが、残されたスケッチはそうじゃないと主張しているようです。気になって、気象庁の過去データを調べると宿の娘さんを描いた日も含めて雨の日は無し、なんで娘さんのスケッチができたのか???になってしまいました。記憶は当てになりませんねぇ。
2025.04.30
1987年8月24日、夏合宿のスケッチです。前回の翌日ですね。無事晴れて写生が出来たわけです。
三浦半島の先端はなだらかな台地です。農地が広々と広がって晴れやかな気分になれます。いいところだなと感じたのを思い出します。手前は収穫の済んだスイカ畑でしょうね。傷ものなのか放置されたスイカがみえます。
平坦な場所は油で描くのは難しいですが、海岸に出ると断崖もあり写生地に適していますし、意外に都心に近い写生地があるんだと感じたのを思い出します。
2025.04.25
1987年8月23日、夏合宿のスケッチです。38年前だから随分時間が経ちました。この時のことは思い出せませんが、激しい雨で宿に閉じ込められたので幹事が気を利かせて宿の娘さんをモデルに引っ張り出し描いたのだと思います。当時は民宿は盛んで団体客も捌けるものが多くて合宿は民宿利用でしたね。
ケント紙にペンとインクのスケッチです。鉛筆の下書きなしで描いて上半身が大きくなりすぎ脚がはみ出すのを無理やり収めたのだと思いますが、足を小さく描く傾向はありました。モデルさんがこれを見たら怒り出しそうです。
人体の木炭デッサンでも川上先生から足を小さくしがちだから気をつけなさいと言われたこともあります。先生の人物画はガッチリした大きい足の人でしたからなおさら小さく見えたはずです。
この絵は神経質で弱弱しく、先生の絵とはほど遠いです。今にして思えば先生と気質の違いは大きくて先生のような絵は描けないのは当たり前だと感じます。
2025.04.20
米伊合作映画「天地創造」からノアの箱舟です。原題は「The Bible: In the Beginning...」日本の題名は意訳ですね。今なら「ザ・バイブル」とかしそうです。爺いとしては「天地創造」にしたのは大したものだと感心します。50年以上は前のはずですが映画館で見た大画面で、エヴァ・ガードナー演じるサライが暗闇に何とも言えない笑みを浮かべるシーンが目に浮かびます。ゲーテの「詩と真実」を引用したときサライは子を産まないので、あの笑みはなんだったのかなと不思議でしたが、天地創造のウィキペディアを読むとサライに子供が授かる予言が書いてありました。サライは90才で予言を信じられない笑みだったと得心しました。
ゲーテの学んだ創世記と違いがあるのは複数の伝承があって、超自然的な立場を排している伝承なのかなとも考えましたがどうなんでしょうか。
2025.04.15
真鶴町岩海岸近くの角地にある廃店舗に残るなつかしの宣伝用看板です。岩海岸は砂地の浜があって、夏は海水浴場です。今は寂れて訪れる人も少ないですが昔は賑わっていました。
アース渦巻かとり線香の看板は、昭和40年代のもののようですがまだ残っています。下のだるまクレンザーの看板ともども、錆もせず、色落ちもなく、しぶといですね。当時の製品の質が高いのにびっくりです。脚の長いモデルさんは由美かおるですが、団塊の世代には懐かしいですね。 たしか、手の届く範囲には松山容子のボンカレーの看板も残っていた気がしますが、残念ながらありませんでした。
2025.04.10
真鶴町役場脇の桜です。成長の早い桜でもこの幹回りは大したものです。散歩するたびに感心しています。この季節は花もめでられて格別です。なのですが、道路わきのわずかな場所に植えられて、電柱も横にガードレールも迫り、あまつさえ根元はゴミ集積所というありさま。
真鶴は平らな場所はほとんどなく、傾斜地を切り開いて出来た町です。ひしめき合っているので街路樹などは植える余裕はないのですが、それでも植えて今に至っているのでしょう。枝の管理は大変だと思いますがしっかりやって見事な桜にしたのです。
2025.04.05
4月3日の散歩途中で撮影したものです。
3月の末に暑いくらい暖かくなったものの、現在は寒く雨も多い妙な天気です。強風になることも多いですし長年経験したものが役に立たなくなっているような気がします。
奥に見える桜は早々と咲いて散るのが早いのでないかと心配しましたが、まだまだ盛んなままで楽しくなります。ここはお寺で手前の緑は生垣なんですが、なんとも驚くべき手入れの仕方ですね。桜を主役にしたいところですが、押しのけてしまう存在感です。
2025.03.30
ゲーテの肖像画の模写です。
昭和16年第1刷、昭和24年改版、昭和44年第23刷岩波文庫版ゲーテ著「詩と真実」を読み直しましたが、青少年時代の聖書研究で、創世記の記述がかなり続きました。以下はその一部です。
ここに子孫の無窮といふ~の預言がくり返され、それのみか預言はいよいよその範圍を擴大する。オイフラット河から、エヂブトの河に至るまでの全地域が彼に約束せられる。しかし彼自身の後嗣についてはまだ見込みがなく、彼は八十歳になつて、一人の息子ももつてゐない。アーブラハムほど~々を信ョしない妻のザーラは苛立つてきて、東洋の風習に做つて侍婢によつて子孫を得ようと思ふ。しかるに婢のハーガルが家長にその身を委せて、一人の息子の希望が見え出すとすぐに家庭に不和が起る。主婦は自分が保護してゐる女をひどく虐待する。ハーガルは他の遊牧族の許でもつと幸福な境遇を見出さうとして逃げる。だが、主の指圖によつて歸つてくる。かくしてイスマエルが生れるのである。
ユダヤ人のパレスチナ建国はアブラハムに下された神の予言にしたがっているのでしょうが、実はもっと広大に予言されているのです。イスラエル軍は、アサドの失脚時ゴラン高原からシリア領に進出占領していますが予言を実行している感覚なのでしょうか。なんか恐ろしい気がしました。
2025.03.25
芥子園画伝山石譜 荊浩の模写です。
関同は荊浩を学んだと前回紹介しましたが、師にあたる荊浩の描き方です。
この2例を見ると、ごつごつした岩山でも、荊浩のは深い山脈の奥に聳え立って、厳しくも神々しい感じを受けました。一方、関同のは険しい岩山でも足下は樹林で優しく包まれていて親しみを感じます。
2025.03.20
芥子園画伝山石譜関同の模写です。
荊浩と関同(中国語版)は唐末から五代にかけての山水画家である。唐時代までの中国絵画は彩色画が中心であり、山水画も青緑山水が主流であって、水墨の山水画が盛んになるのは宋時代以降のことである。荊浩と関同は水墨山水を描いた初期の画家であり、後世への影響が大きかったが、彼らの作品の原本は現存しない。荊浩は河南沁水の人(本籍については異説もある)で、字を浩然といった。彼は『筆法記』という画論を書いており、次のような言葉を残している。「呉道子の画山水には筆あれども墨なく、項容には墨あれども筆なし。吾は二子の長ずる所を采(と)りて一家の体を成すべし」。すなわち、唐代の名画家・呉道子には線描の美はあるが水墨の美はなく、項容(中唐の画家)には水墨の美はあっても線の美はない。自分は両者の良いところを採って、自分の画風を確立する」ということである。関同は、『宣和画譜』『図画見聞誌』に「長安の人」とあるが、出身地は不明とする史料もある。荊浩に学んだということ以外、詳しい経歴はわからない。荊浩については『匡廬図』(きょうろず、台北故宮博物院)、関同については『秋山晩翠図』、『山谿待渡図』(ともに台北故宮博物院)などの伝承作品がある。いずれも水墨山水で、中国北方の険しい岩山を描いたものである。(Wikipediaの「中国の絵画」から)
現物はほぼない絵画の変遷を当時の画論や伝承作品で延々と積み上げている中国人は、伝統を大事にして新しいことに挑んでいく人々かなと思いながら引用しました。
2025.03.15
芥子園画伝山石譜劉松年の模写です。
劉松年は南宋(1150?〜1125以後)の人で、日本だと白河上皇の院政期でしょうか。
銭塘(杭州)の人。李唐の弟子の張敦礼に山水・人物を学び、紹興年間(1190-94)画院待紹となり、寧宗に(耕織図)を献上し、金帯を授かった。院体画の大成者で、李唐・馬遠・夏珪と併せて南宋四大家と呼ばれる。
師の張敦礼よりも高い名声を得て、後に二李の大斧劈皴と小斧劈皴を融合して独自の皴法をつくり出した。
ごつごつした岩山に適した皴法なのがこの絵を見ていると感じます。
2025.03.10
幕末、英国大使の日本語通訳士として来日したアーネスト・サトウの肖像です。明治維新を英国側から見た記録でもある、岩波文庫「一外交官の見た明治維新」から模写しました。大学のとき読んで最近読み直し考えさせられることが多々ありました。その一つです。
「日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。だが、外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書かなくてはならぬ。さもなければ、そうした企図は完全に失敗に終わるだろう。しかし、この国には侍がすこぶる多く存在していたのだから、こうした事は実現不可能であった。一九一九年(訳注 大正八年)の今日から見ると、だれにもせよ日本精神を理解していた者が、唯の一瞬でもこうした考えをいだいたということは、冗談にしろ全く信じられないのである。」
日本人は、言語と文字は日本語以外を受け入れない基盤が太古からあったような気がしました。弥生や古墳時代は大陸からの移住民で溢れかえっても支配階級の言語にはならなかったような気分です。誰か教えてですね。
2025.03.05
4日は春季新作家展の飾り付けでした。写真は準備完了の入り口です。泰明小学校の前にある銀座洋協ホールは、川上尉平先生の遺作展をした画廊です。45年は経っているはずなのでずいぶん昔のことですが懐かしい思い出の場所です。建物名称はギャラリーセンタービルで、当時、斬新なデザインのギャラリー専用建物だと評判になった記憶です。職場が近くで昼休みに覗いていました。大きい画廊が多くて、重厚な大型作品を並べているところは気後れしながら入ったのを思い出します。
時代は移り、画廊だけの建物も異業種が入り大きく様変わりしています。銀座は古いものもしぶとくありますが大規模建て替えの最中です。ここは、建物周りに足場があり外装の手入れをするようなので、しばらくは大丈夫かなぁと思いながら入館しました。
2025.03.01
F30のパネルに和紙を張って描いた水墨画です。樹叢と名づけました。3月5日から銀座で開催の春季新作家展に出品します。絵を描くのもしんどいですが、展覧会があるので描かざるを得ません。外圧があってやっとできたのです。
東京大学史料編纂所本郷和人教授が日本史はゆるい、外圧で締まる論を展開されていますが小生にも当てはまりますね。スケールが桁違いですが。
2025.02.25
MWS珪藻プレパラートHKZ-01(渓流)からフルスツリアの断片です。全体のものもあり、その方が見栄えもするので普通ならばこのようなものは紹介しないはずですが小生は、これも良しの好みです。殻面の厚みが周囲の立ち上がりや中央の突起の厚みと比較出来て情報が多いのもあり、なんとなくはかなさもあって惹かれます。
電子顕微鏡の画像では、殻面は平滑でそこに規則正しく胞紋が並んでいて、裏面はこの画像のような感じです。ですから、これは裏面を観察しているはずだとなりますが、生物顕微鏡の世界はそう簡単ではありません。表面が上にあってもピント位置をかえていくとどんどん変化しこの姿も現れます。
2025.02.20
昨年9月に載せた排水溝の土留めが倒れたところの再建の様子です。どうするのか興味津々でしたが半年近くたって手が付きました。かなり考えたのか、予算がなかったのかわかりませんが、パイプを打ち込んで網状パネルを取付けることでしっかりと土留めの役割をしていますし、型枠にもするうまい手だと思いました。
真鶴に越して30年、崖崩れは聞いたことはなく、高低差の激しいところでも安定していると思っていましたが、昨年は二か所であり異常な感じを受けました。異常気象が当たり前の世の中になっていますし不気味さが募るばかりです。
2025.02.15
スケッチは港とか断崖と岬でしたので、そこを油で描くのが普通です。ところが、そうならないのが小生なのです。写生地をくまなく歩くのが習慣でしたから、海岸沿いと言っても崖の上の小径に入り込んで松林の中を歩きました。その途中で見つけたのがこの場所です。そして、枝振りが気に入ったのだと思いますが、ここを写生地としたわけです。 幹と枝を正確に写そうとすると神経衰弱になりそうでイライラしたのを覚えています。途中で小雨が降りだしても森の中なのでなんとかしのげた記憶もあります。苦労して描いたので思い入れも深い作品です。
2025.02.10
前回に続きます。スケッチした場所は思い出せないものの、岬が左から右なので八幡野港から南に下ったところですね。日付が22日なので現地に到着してすぐだと思います。9月後半で天候に恵まれなかったのが絵を見ると明らかですね。
夏合宿は8月末で3泊4日のが長かったのですが、時には台風が直撃したこともありました。初日に台風が通り抜けたこともあって宿の人が人数がそろうのか心配しているのを幹事が夕方にはそろうから安心して下さいなどと答えていたのを思い出しました。実際、取り消しの人がわずかに出ただけでした。若かりし頃の話で、野蛮だけど良い時代だったなと思います。
2025.02.05
昔のスケッチです。2005年9月24日伊豆伊東市の八幡野港で、波が立っているのと色彩がくすぶっているのは風強く雨交じりだったと思います。
記憶が定かではないものの、遅い夏合宿の最終日で帰る前にササっと描いたものでしょう。あるいは朝食前のものかもしれません。
58歳の時で、この頃まで合宿をやっていたんだなと懐かしいですね。若い頃は参加人数も多く賑やかなものでしたが、この頃は少人数でひっそりとして落ち着いたものだった記憶です。
2025.01.30
「これ貞観六年孟夏の月。皇帝、暑を九成の宮に避く。これすなわち隋の仁寿宮なり。」
唐の第二代皇帝太宗が皇后とともに仁寿宮に避暑に行き甘美な泉を見出し瑞兆として石碑を建てました。古来楷書の名品として珍重され、現代日本でも「九成宮醴泉銘 欧陽詢」として習字のお手本帳となっています。
左図は、巻頭の一頁をスキャニングし輪郭をなぞって輪郭線のみのデータにしました。それをプリントして下が透ける半紙をのせ書いたものです。
このように実力で書ければいうことはなし。なのですが、電子機器とソフトの力を借りて出来たものです。それでも勉強になるらしいです。字配りとか筆の動きとか名人の息遣いを感じて意義がある。と解説されていたのを見たことがあります。
2025.01.25
顕微鏡の世界では暗視野にすると暗闇の中に光り輝くものが現れます。光の当て方を変えると色変わりの世界も現れます。図はMWS珪藻プレパラートJ297から、そんな色変わりの世界を合成したものです。
ギロシグマ(エスガタケイソウ)じゃないかなと思っているのですが、形も違えば色彩もかなり違って楽しい世界です。左の濃藍から明るい空色への変化は腑に落ちますが、右の青緑から赤に変わるのはビックリものですね。
2025.01.20
モースは大学近くに洋館を作ってもらい授業や講演をし、全国を訪れ多くの人と触れ合いながら研究材料や大学の標本も採集しているので日本の知見は広く深いものがあったようです。そして親日家として知られます。以下は日本の国民性に関する記述です。時は明治10年以降です。地方は江戸時代と同様だったと思います。
晝間通過した村は、いつでも無人の境の觀があつた。小數の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いづれも田畑で働くか、あるひは家の中で忙しくしてゐた。これはこの國民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示してゐる。人々は一人殘らず働き、みんな貧乏してゐるやうに見えるが、窮民はゐない。我が國では大工場で行はれる多くの産業が、ここでは家庭で行はれる。我々が工場で大規模に行ふことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蝋の製造、その他の多くが行はれてゐるのを見る。これ等は家族の全員、赤ん坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁老婆に至る迄が行ふ。(私は京都の陶器業者に、殊にこの點を氣づいた。)
2025.01.15
モースは大森貝塚を発見したことで有名ですが日本滞在記も残しています。1877年39才でシャミセンガイの採取目的で来日し、縁あって東京大学の動物学科の教授になります。図はモースが描いたものでふんどし一丁で働く日本人と貝塚の出土品です。以下はその文章から
日本に着いてから數週間になる。その間に私は少數の例外を除いて、勞働階級―農夫や人足達―と接觸したのであるが、彼等は如何に眞面目で、藝術的の趣味を持ち、そして清潔であつたらう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づきたいと思つてる。この國では「上流」と「下流」とが、はつきりした定義を持つてるのである。下流に屬する勞働者たちの正直、節儉、丁寧、清潔、その他我が國に於て「基督教徒的」とも呼ばるべき道コのすべてに關しては、一冊の本を書くことも出來るくらゐである。
昨今、Youtubeで来日外国人が日本は素晴らしい国だと叫びまわっていますが、今も昔も変わっていないのですね。さすがにふんどし一丁はなくなったとしても。
2025.01.10
28才で描いたF0号の油絵です。子供のころから絵は好きだったのですが、職場の美術部に入って本格的に描き始めたころの作品です。油絵の経験はなかったので恐る恐る描いていました。
キャンバス上で絵具を混ぜて色や質感を出すことも知らず、パレット上で作った色をキャンバスにこすりつけているだけの絵です。工夫したのは柿を布の上に置いて、平面に変化をもたせて補色の緑色にしたことです。セザンヌの静物画に果物や瓶などと布を組み合わせたものがあり真似したのです。
2025.01.05
岩波文庫・クセノフォーン著「ソークラテースの思い出」からの抜き書きです。
「神々は第一に、あらゆる生き物のうちで人間だけを眞直ぐに立たせた。そして直立は前方を一層遠くまで見ることを得しめ、上方にある物を一層よく見ることができるようにし、一層怪我のないようにする。第二に、ほかの匐って歩く物どもには、足という單に歩くことしかできぬ物を與えたのに、人間にはその上に手というものをお授けになり、この手がわれわれを彼らよりも幸福とした一切の物を作り出したのである。さらにまた、あらゆる生き物が舌を持っているのに、ひとり人間の舌のみに、口のいろいろな場所に觸れて音を發し、思うことをなんなりとお互いに傳えられるようにした。〔また性的快樂も他の生き物には一定の季節に局限しながら、われわれには斷續なく、老境に入るまでこれを許してある。〕
類人猿から人類へと進化した要因をソクラテスは明確に述べています。古人類の化石が続々と発掘されているころ激論が交わされていたようですが、古代ギリシャ人ソクラテスにとっては自明の事だったのです。古代中国の論語といい古典の大事さを感じさせます。