あれこれ、日々に感じたことを書いていきます。

過去のあれこれは下線のある番号から
      2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 2023 2024 2025 最新

2026.03.01

あれこれ01188

    潮書房光人新社2020年発行・駆逐艦「神風」電探戦記新装版からです。
 雨ノ宮洋之助氏は昭和18年6月に海軍に召集され、電探の教習生に応募し、さらに幹部候補生となり、昭和19年12月に「神風」に電探長として配属されます。電探の責任者になったわけですね。
 画像の駆逐艦は「睦月」ですが、「神風」はほぼ同じ形です。艦橋の上に二十二号と逆探知用電探を置き、その下層階が電探室で、8名程で汗水流していたようです。
 「神風」は老朽艦でしたが、速力37ノットの快速艦で名艦長と手足となった部下達で生き残った幸運艦です。米潜水艦隊と渡り合い、米映画「深く静かに潜航せよ」のモデルにもなっています。電探は故障も多く扱いにくい兵器だったようですが、「いつも大事なときはふしぎと、かならずりっぱに作動して「神風」を助けたのだった。」そうです。

 以下、整備の大変さと、用兵の疑問も感じられたようですので、そこも引用します。小生も実はそうではないのかと何気に思っているのです。

 ところで、この記録のはじめから、電探に故障が多いことをいいつづけてきたが、故障原因のほとんどはつぎのようなものだった。
一  真空管(二十二号に約四十本使用、このうち一コがだめになっても全体不能になる)の不良(寿命がみじかく、震動などですぐ使用不能になるなど)
二  接触不良(端子部、結線、各部ハンダ付けが切断したり、完全に熔着していないなど)
三  機械(コンデンサー、抵抗器など)の不良(湿気による絶縁不良、熔断、焼断)
 もともと脆弱なそれらが、砲撃や銃撃(ほとんどは自分の艦)、爆雷投下などの震動で、予期しない故障を惹起することなどにあった。
 本艦の主砲はもとより水上砲で、対航空機用ではない。だから、敵機が海面すれすれに飛んでくれないことには、仰角不足(四十度)で使えない。しかし、対空戦闘の場合、しばしば高射砲弾を装填して撃つ。ことに艦橋直後の二番砲が前方に向けて発砲するさいは、電探室入口(右舷)ケッチン(扉)をかすめて、爆風のしめす威力たるやものすごいものがあった。
 整流機の真空管は点っていれば、たちまちにしてグロー(管球のなかで沸とう状に燃え上がる)した。 その他、(もちろん自艦のだが …… )連装機銃も単装機銃も同様で、対空射撃をいっせいにはじめると、艦全体の空気が大掃除のさいのたたみをたたくように、バタバタと鳴りはためき、そのまた爆風たるや、これまたそうとうな衝撃だった。
 このため電探機器は、大湊ですえつけるときに、木台に緩衝ゴムを念入りに当ててしめつけたはずなのに、各部がたちまちガタガタにゆるんだ。
 以上のようなわけで、対空戦闘のさなかでも、敵潜との対決の場でも、電探員たちは半裸体で小さな部屋でムシ上がりながら、テスターやドライバー、ハンダごて相手に、各部品を床いっぱいにひろげて、そここことハンダづけしてみたり、ビスをはずしたり、接触部をサンドペーパーでみがいてみたりの『分解→組立戦争』だった。


 駆逐艦と潜水艦の戦闘は、プロ野球のようにインニングがある。つまり、一方が攻撃しているときは、他方は防御の側へまわる。だいたい、相互に撃ち合う形をとらず、受ける方は隠忍自重のがまんと回避をかさね、完全に受けきって攻防入れかわるチャンスを、じっと待つ。
 この時間交替型(?)戦闘が、神経を消耗させる度合いは、たたき合い方式とは比較にならないほどにはげしい。それをふまえたうえでいえるのは、私たちの幾回もの戦いは、いつでも敵の側が先攻だったということである。
 日本の電探は防御専用にもちいられ、攻撃には使われなかった。いや、使おうとされなかった。そういう戦法が兵器の上からまだ考えられなかったのだ。
 一方、連合国側は潜水艦にしろ、飛行機にしろ、いずれもすぐれたレーダーを百パーセント駆使して、先制攻撃をかけてきた。


2026.02.25

あれこれ01187

    太平洋戦争で日本海軍はレーダーの開発で後れを取り大損害を受けたというのが常識のようですが、昭和30年に病死された岩本徹三氏のトラック島防空戦の一節に電探の活躍がありました。昭和19年3月の話ですが意外な感じがしました。と言うのも、2月18,19日に米機動部隊によるトラック島急襲で大損害を受けた対策でラバウルに居た岩本氏らが派遣されたという記載が前にあったからです。わずか半月前の出来事です。その時に電探は配備されていなかったのでしょうか、あるいは調整中で機能していなかったのでしょうか。帝国海軍の基地防衛の体制が脆弱だったのかなぁと思いました。
 氏の空戦の仕方は、敵の侵入コースと高度を予測し、効果的な攻撃を何処でどの高度でするかを決めて待ち受け、相手に気づかれることなく襲い掛かかると言うものです。以下、長いですが3号爆弾で大型爆撃機を多数撃墜した話です。3号爆弾はクラスター弾で適切な位置で爆発すると効果絶大です。問題は信管が目標物に近接して作動するのではなく、投下後の決められた時間で作動するので投下位置が限られて、名手でないと効果がなかったようですが。

 春島、冬島、金曜島の三ヵ所に設置されている電探も、しだいに性能が向上して、250キロから280キロくらいまでは完全に目標をつかむようになり、敵の攻撃も、20分から30分前に探知したので、私たち邀撃戦闘機隊にとっては非常に有利となった。
 三月六日、午前10時すぎ、冬島電探から、南方240キロ付近に相当大きな目標物ありとの報告で、訓練を中止して、全機待機となった。
 三号爆弾を装着した私の中隊は早めに発進して、高度8,000メートルをとり、秋島と日曜島間を哨戒、主隊は飛行場上空より東方面を哨戒する。
 電話で敵状をきくと、まだ目標は確認できないが、西方に回りながら近づいているとのことである。おそらく土曜島方面から、春島と秋島間に向って来ると予想して、高度を9,000メートルにあげた。列機に、土曜島方向を特に注意させながら警戒中、火曜島方向の水平線はるかに、近づいてきたのは、まさしく敵の大編隊である。
 直ちに地上へ「敵大型機編隊発見す」を知らせる。敵は予想どおり土躍島と火曜島のほぼ中間のところからこちらに向って侵入してくる。太陽光線で翼がときどきキラキラと光る。どうやら夏島に向っているらしい進路である。三号爆弾攻撃は、できるだけ敵の進路上より接近すれば確率を増すので、その点を考え、はやめに列機を単縦陣として、各機間約150メートルの間隔をとり、反航態勢で接敵する。
 堂々たるB24四八機の大編隊で、一機の掩護戦闘機もついていない。大胆な白昼の来襲である。われわれ戦闘機隊をみくびったのか。私たちは満を持して待機した。反航態勢なので彼我の距離は急速にちぢまる。高度差、距離の判定を誤ればぜったいに成功しない攻撃法である。はやる心をおさえ、慎重に距離とスピードを判定、時期到来の瞬間、背面に切りかえして、敵大編隊の1,000メートル前に垂直に突っこむ。
 敵の前方1,000メートル、高度600メートルのところで投弾するのである。心の中で数を数え、四つと同時に「テッ!」と叫んで投下把柄を引き、そのまま右足いっぱいにバンクをとって、敵編隊の右側方をさか落しに突破する。次の瞬間には、力いっぱい操縦桿を引き、結果いかにと上空を見る。目はちらつき、はっきり見えない。ただ上空に敵の後続編隊がうすぼんやり見えるだけだ。操縦桿をややゆるめて、上昇姿勢をとり、あらためて同航にしながら眺めると、タコの足のような煙が、いま通りすぎた敵編隊の後方に見える。
「しまった!」
 失敗したと気がつき、それなら機銃攻撃で行こうと、全速で敵を追尾する。B24はすでに夏島に爆撃を終った様子であるが、なにかさっきの編隊とはちがっているようである。私の後方の列機は一機だけついていて、あとの六機がいない。不審に思ってなおよく後方を見ると、なんと敵のB24六機が白煙を引いて土曜島方向に高度を下げながら遁走して行くではないか。
 その上下に小さな黒点が動いている。
「あっ!命中したのだ」
 しかも6機という大型機がいっぺんに至近弾を受けたらしい。  私は目前の敵機にせまり、最後尾の一機に側方より、さらに前方の機へと繰り返し攻撃を加えた。攻撃しながら敵の編隊を観察すると、そのうちの10機以上は白煙を引いている。この編隊の頭上にも誤りなく三号爆弾が炸裂したらしいのである。
 敵が外礁を通過するころには、さらに6機が編隊からはなれぎみになり、邀撃隊はこの敵に対して集中攻撃をかけている。
 私は攻撃をやめて、さきに土曜島方向に高度を下げた敵機の、その後の状況を偵察すべく反転した。
 土曜島の左側の外礁の内側に大きな油紋が二つと、外側に大きく油の流れたあとが一つある。慎重に偵察したが、それ以上は見当らない。味方機もいないので、反転して飛行場上空に向う。みると、すでに列機の六機は着陸している。指揮所前に、着陸せよの布板が出ていたので、そのまま着陸した。
 指揮所前で列機の6人が笑顔で迎えた。投弾直後失敗だと舌打ちした攻撃が実は大成功であったのだ。私もさすがに顔がほころぶ。
 指揮所にはいると、柴田大佐が私に向って両手を上げて「バンザイ」をして迎えてくれた。伊藤司令、岡本飛行長も、今日のような胸のすく攻撃を見たのははじめてだと大よろこびである。
 私は爆弾が敵機に命中した瞬間は見ていないので、列機にその状況を聞くと、三番機が攻撃にはいったとき、私の爆弾は、上から見ると敵の先頭中隊のあたりで爆発したとのことである。
 指揮所の連中は敵編隊の上約50メートルくらいのところでピカッと光って爆発したのを見たそうである。それと同時に爆煙の下の方でB24の大きな翼が急旋回して、そのまま反転、高度を下げながら土曜島方向に見えなくなったという。
 列機の話では、3機は内礁に、2機は外礁に突っこみ、1機は海面すれすれに外海にのがれたが、不時着はまちがいないとのことである。
 さらに4番機の放った爆弾は、編隊の上空150メートルくらいのところで破裂して、これも相当の被害を与えたらしいが、私が敵機を追いかけたとき、ガソリンの尾をひいていたのがそれであろう。
 そのうち邀撃隊もつぎつぎ帰ってきて、その報告によると、さらに6機が外礁300キロぐらいのところで不時着水したという。


2026.02.20

あれこれ01186

    昭和45年第14刷、岩波文庫版・新井白石著「折たく柴の記」です。若造が生意気にもこんな本を求めて分かりもせず読んでいたのですね。紙質も悪く古びて黄ばんでいます。活字は活版でしょう。今どきのデジタル処理したものと異なり味を感じます。
 長崎での海外貿易で決済用の銅が足らず密貿易がはびこり解決策を考案したことの段の一部を引用します。江戸時代は鎖国政策で貿易は無しのはずですが、輸入されるものはかなりあるものの、輸出するものはなく、金銀銅で支払っていたようです。相互貿易の大事さを思います。かって日本は対米貿易の黒字を米国債の購入でバランスを取っていたのでしょうし、今の中国は、アフリカとか中南米のインフラなどの大規模投資でやっているのかなとも思います。これをネットでは債務の罠とか言ってますけど怪しいですね。清朝は自給自足可能な大国で、英は茶や絹など買うものは多かったが清朝に買ってもらえる商品が無く、阿片を売るしかなかった説を読んだ事もあります。とんでもありませんが、背に腹は代えられない。だったのでしょうか。

 前代の御時、長崎奉行所に仰せて、長崎におゐて、海舶互市のために、費し用ひし所の金銀銅の數を聞召れしに、慶長六年辛丑より正保四年丁亥に至る迄、凡四十六年の間の事は詳ならず、慶安元年戊子より、ェ永五年戊子に至て、凡六十年の間に、外國に入りし所金貳百三拾九万七千六百兩餘、銀三拾七万四千貳百貳拾九貫目餘也、銅の事は、ェ文二年壬寅よりさき、六十一年の間の事は詳ならず、ェ文三年癸卯より、寶永四年丁亥に至て、凡四十四年の間、壹億壹萬壹千四百四拾九万入千七百斤餘に及べりと申す。これはただ慶安元年戊子より此かた、奉行所に聞えし所の事のみ也。それよりさきの事共は、長崎ばかりの事にもあらず、前にしるせし事のごとく、外國の船ども、我國の中ここかしこに來り商ひし、我國の船どもも、外國の中ここかしこにゆきて商ひす、此餘對州より朝鮮に入りし所、薩州より琉球に入りし所の事等は、ことごとく皆其數をはかり知るべからず。されど、試に、長崎奉行所よりしるし進らせし所によりて、其法を設けて、慶長より此かた凡百七年の間、外國に入りし金銀の大數をはかりて、又慶長より此かた我國にて造られし金銀の大數にくらべ見るに、金は四分が一をうしなひ、銀は四分が三をうしなふべし。さらば、今よりして後、金は百年を經て、其半を失ひ、銀は百年を出ずして我國にて用ゆべきものは有べからず。銅はすでに今海舶互市の料足らざるのみにあらず、我國の歳用もまた足らず。我國に産する萬代の寶貨となるべきもの傾けて、遠方より來れる一時の奇玩となすべきものに易られ、これら貨利の事のために、我國威を損ずるに至らむ事、しかるべき事共とも覺えず。もし藥物書籍等を求め得んために、やむ事を得べからざらむには、當時我國に通じ用ふる數と、毎歳諸國に産する數とをはかりて、長崎並びに對州薩州等の地より、外國に入べき所の歳額をば定むべき事也。


2026.02.15

あれこれ01185

    MWS放散虫プレパラート特注品J482からです。「美しいなぁ」いつ見ても思います。
 ところで、美しくない話ですが、1月7,8日に最大の犠牲者が出たとされるイランのカラー革命失敗談です。真偽不明ですが、マスコミとポッドキャストの比較です。
 ネットのForbes JAPANに・・「イラン史上最も残忍」な抗議デモ弾圧、2日間で3万人超虐殺か 群衆に重機関銃掃射も・・が掲載されています。
 一方で一部のポッドキャストでは、レアルの暴落で抗議デモが発生、そこに銃の所持が法で禁止されているにも関わらず武装集団が登場し無差別射撃をし、公共施設などの破壊を行ったものの、イラン政府はインターネットとスターリンクの遮断を行い武装蜂起をした人を特定し逮捕した。その後、イラン政府を支持する大規模なデモが行われたと真逆の事を言っていました。
 つい最近ですが「デモ鎮圧に中国の顔認識ソフトで特定し一網打尽にした」と言っている人がいました。それまではスターリンク端末の逆探知で捕まえた説を聞いていたのですが、恐ろしいことを言うなぁとビックリしました。我が日本でも、あちこち防犯カメラが設置され、交通機関で顔認識のデストが行われたというニュースを見た記憶もあります。スマホの位置情報と結び付ければ捕まえることは造作もないでしょう。凄い時代になったものだと思っていたところ、派遣された無敵艦隊を補うため、カリブ海の原子力空母ジェラルド・フォードを中核とする空母打撃群を追加派遣しました。トランプはやる気満々ですが、イランは屈するつもりはないようです。戦争が引き起こされるような恐ろしい話ばかりですね。何事もないのを祈るばかりです。


2026.02.10

あれこれ01184

   2026年2月3日、アラビア海上で米海軍の原子力空母「エイブラハム・リンカーン)」艦載機F-35C戦闘機によって、イランのドローンが撃墜されました。戦闘機が落としたのでかなり遠いところでしょうね。この絵のように真上を飛んでいたのではないでしょうが、適当に集めた写真を組み合わせて輪郭をなぞったいい加減なものです。
 ドローンもこれで良いのかは不明ですが、2023年にイランが新型無人機「モハジェル10」を公開して連続飛行時間は最大24時間で航続距離2,000キロだそうです。空母打撃群はイランから800キロの海域で活動中らしいので間違いないような気もします。
 帝国時代華やかりしころ砲艦外交がありました。目前に砲艦を並べて有無を言わさせなかったのですね。かって空母を中心とする機動部隊は無敵を誇っていましたが、世は移り、百発百中のミサイル時代となり脆弱になって砲艦の役割がしかねるようになっているのではないかと思えます。
 米国のプレデターそっくりのドローンは偵察用で情報を収集していたのではないかと思いますが、イランの大量のミサイルは地下基地に配備され正確な位置情報で襲い掛かれる能力があるのを恐れているのかなぁとも思いました。戦争になるとホルムズ海峡が封鎖され、石油が来なくなる東アジアはオワコンとか、オマーンで交渉がありましたし、なんとか話し合いで解決するのを願っています。


2026.02.05

あれこれ01183

   スプートニクの 「オレシュニク」の引用です。
・ 射程距離は平均1000〜5000キロ
・ 速度はマッハ10(時速1万2380キロ、秒速約2.5〜3キロ)
・ 着弾時の弾頭の温度は4000度
・ 弾頭は約1.5トン
・専門家らの見解では、オレシュニクは固体燃料式で、通常弾頭と核弾頭の両方を搭載可能。さらに150キロトン級の熱核弾頭3〜6発を搭載できる。
・ 核出力900キロトン(広島に投下された原爆の45倍)の爆弾を運搬可能。
・ 地下3〜4階の深さにある、要塞化された標的の破壊が可能。
・ 「オレシュニク」の迎撃は飛行の初期段階でのみ可能。弾頭部は最高速度で標的に接近するため、最終段階で「オレシュニク」を迎撃することは不可能。
・ 「オレシュニク」は、防御の固い、地下の標的にも攻撃が可能。攻撃の際に弾頭部の温度は4000℃にも達する。このため、同タイプのミサイルを大量に使用した場合、威力は「核兵器の使用に匹敵する。

 
 図は、グレン・ディーセン教授のユーチューブで「セオドア・ポストルが語る:ロシアのオレシュニク・ミサイルの秘密」で使われていたものの部分です。子弾を6個持つ6個の弾頭の納め方と弾道の例を示しています。
 核軍縮で禁止されていた中距離弾道ミサイルが軍縮終了となり、使えるようになったので、一段目のロケットに精密誘導の弾頭6発を搭載するように改良したようですね。核弾頭でなく運動エネルギーで破壊する固体の子弾36発を搭載することもでき、ウクライナで2回使用されました。ネットでの評価はロシアの言うほどはなく、大したことはない説も見られます。真実不明なものの、図のように千キロ先に15分で到着し、6個の弾頭を狙ったところに当てる技術は確からしいので恐ろしい兵器には違いないでしょうね。


2026.01.30

あれこれ01182

    少年時代は軍艦の模型を作ったり、戦記を読んだりしてました。高校時代だと思いますが、当時住んでた川崎の駅前商店街の古本屋で「大海軍を想う」を求め、日露戦争の黄海海戦が記憶に残りました。他は忘れたので余程惹かれたのでしょうね。
 露西亜帝国は陸軍国ですが海軍も強大で、旅順艦隊だけでも日本海軍に匹敵しており、バルチック艦隊が来航する前に退治しておかないと勝負にならない状況だったそうです。
 旅順艦隊は決戦を避けていましたが、ついにウラジオストックに向けて脱出を図り黄海海戦がおこります。そして、上図のように1時15分から3時まで打ち合いますが逃げられてしまうのです。
 艦隊の速力差があり5時半に追いつき砲撃を再開しますが、6時40分ごろまで、互いに損害を受けても決定的なものではなく日没が迫ってきました。ほとんど逃げられそうになっていたわけです。
 そこに「運命の一弾」が敵旗艦の艦橋に命中、司令官戦死です。次いで第二弾が命中、操舵主を倒され艦は左旋回して旅順艦隊は四分五列となり、旅順に引き返します。

 逃げられたらバルチック艦隊と旅順艦隊を前後に受けて戦う事になり、勝利は望めず、兵站線を切られて大陸の陸軍は野垂れ死にするしかなくなってしまいます。運が良かったとしか言いようがない状況だった訳ですね。それで記憶に残ったようです。


2026.01.25

あれこれ01181

    航空母艦に改修される前の「いずも」と戦艦「大和」です。「いずも」は軽空母でもいかに大きいか良く分かりますね。改修完了は、「いずも」が2027年度、「かが」が2028年度でもう少し先ですが、米軍のF-35Bで離着艦の実験のニュースがありましたね。問題なかったようです。改修内容は以下のようで500億円程度掛るようです。建造費が1,200億円らしいので改修でもかなりなものです。
 ・甲板の耐熱処理 (甲板全体に耐熱コーティング離着艦地点は耐熱パネルに交換)
 ・艦首形状の変更 (艦首を四角形としやや上向きにして離陸性能を向上)
 ・航空管制システムの追加 (F-35Bは新しい航空管制装置、着艦誘導システムが必要)
 ・燃料・弾薬庫の拡張 ( F-35Bは航空燃料と専用の弾薬が必要)
 10機のF-35Bを搭載可能で軽空母扱いですが、もともと対潜水艦戦用のヘリコプター空母ですし、空母にはならないと言われていたような記憶です。やっぱりと言う気もしますが日本の技術力でもあるのでしょうね。大型艦は指揮管制機能を充実させられますし、大量の情報が溢れる電子戦でもある現代の戦闘には不可欠な船なのかなぁとも思いますが、活躍しないで退役する未来を期待したいです。


2026.01.20

あれこれ01180

    MWS放散虫プレパラート特注品J482からです。放散虫は暗視野で撮影すると美しいですね。宇宙空間を飛行する宇宙船の趣があるなぁと、いつ見ても思います。
 話は変わって、一昨年の正月は能登半島地震で始まり、今年はトランプのベネズエラ・マドュロ大統領誘拐で始まりました。超大国の国際法無視の暴挙でも国際世論の非難を浴びないと言う仰天世界の始まりです。日本も着々と軍備の充実が進められています。なんと、航空母艦の完成です。イギリス建造の装甲巡洋艦「出雲」の名を受け継いだヘリコプター母艦「いずも」が、F-35B搭載の本格空母に改修され、二番艦「かが」も間もなく改修が完了します。旧軍の「加賀」は戦艦として建造中、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦に改修された経歴です。真珠湾攻撃の主力空母で、ミッドウェー海戦で沈没しましたが、「赤城」と並んで有名ですね。なんとなくですが、新空母の名前の付け方が旧軍の影を引いているようで不気味な気もします。
 先の大戦後、日本は驚異的な復興を遂げましたが、軍事に金を使わず民生に注力したのが大きかったと言う説を読んだ記憶があります。この説が正しければ、世界中の国が軍事に金を使わなければ皆幸せになるのではなかろうかなどと夢想する今日この頃です。


2026.01.15

あれこれ01179

    1971(昭和46)年に国立西洋美術館で開催された「ドイツ表現派展」の図録です。表紙絵はカンディンスキー≪印章No.3〈松明行列〉≫です。カンディンスキーはロシア人ですが、ドイツに渡り表現主義画家の集まりである「青騎士」の中心人物になったそうです。ノルデと同様にナチスドイツの頽廃美術に指定されてフランスに移り住みますが、ノルデは亡命を勧められても応じなかったそうです。人の意思と運命はそれぞれですね。
 この展覧会を見たのは23歳の時でまだ絵を始めていません。毎週デッサンをして時どきの講習会や写生会で油絵を描き出すのは3年後ですね。世間の評判になった展覧会でもなく、単に絵が好きで教養を高めようと言うぐらいの気持ちで見に行ったと思いますし、強烈な印象は受けなくて、この展覧会のことはすっかり忘れていました。青二才の手に負えない作品群だったのでしょうね。図録を買っていたので紹介できるわけですが、忘れていても、実作を多数見たのは肥しにはなっているものと思いたいですね。


2026.01.10

あれこれ011788

   画像は、「エミール・ノルデ展」(1981年)の図録から初期の作品と、ナチスドイツの頽廃美術展の様子と出品されたノルデの「キリストの生涯」です。
 ノルデ(1867−1956)は日本ではあまり知られていないと思いますが、ドイツ表現派を代表する巨匠です。色彩は強烈、形は細部まで描かれることはなく正確さもありません。画家の情念や思想がこれでもかと言うほど込められていると思います。
 ブリュッセルでの「国際宗教美術展」に送られた「キリストの生涯」(1912年)は教会側の抗議で展示されなかったそうですし、ナチスドイツの迫害も受け1938年の「頽廃美術展」の中心になる展示だったそうです。支持者も反対者もありその間の争いは激しいものがあったのでしょうね。世の中の片隅にひっそりと咲いた花でなく広く咲き誇り、親しまれもし憎まれもした花だったのでしょうか。ノルデが、日本美術のすべては、趣味の品という領域に留まっていると感じたのも氏の作品を見ると納得できるような気もします。
 ですが、法隆寺を訪れたなら、金堂は見ているはずです。銅製の釈迦三尊像や消失前の壁画など堂内の荘厳な一群の仏像の織りなす空間を経験したと思います。また、秘仏の救世観音は表面に押された金箔が残り、ブロンズと間違えていますが日本で見た最も美しい美術品となったとも言っています。これらは日本人が造ったとは思わなかったのでしょうか。日本の風物がきわめて良く手入れされていて、清潔であるのが日本人の本質で深い思考はあってもわずかしかない。とでも言うのでしょうか。なにか、納得できない気持ちも残ったのも覚えています。


2026.01.05

あれこれ01177

   浦上玉堂作「煙雨糢糊」の模写です。今年の年賀状用です。
 模写をしている時、何か優しい感じを受けました。そして、李成はごつごつして厳しかったなぁと思い、エミール・ノルデの言葉で「古い,真に価値のある作品は全て中国のものだった。 ……日本独自の芸術は,重要ではない。」を思い出しました。若い時に読んで忘れられないほど印象深かったのですね。玉堂の絵は重要だと思いますが、中国ほど厳しくはないのも確かでしょう。 読んだ文章は1981年、国立西洋美術館で開催された「エミール・ノルデ展」の図録にありました。引用します。

ノルデの見た日本
 日本人と中国人は文化的民族で,日本は東洋のドイツです。ただ私は,日本民族の内に,ドイツ人のような深い内実が宿っているとは思いません。 (1913年11月13日付書簡)
 ノルデは,ニューギニア学術調査団に同行した旅行の途上,1913年(大正2年)10月から11月にかけて,日本に立寄っている。一行は,シペリア,朝鮮を経たのち,下関,門司あるいは神戸に上陸,汽車で東京へ向かい,東京およびその近郊を見物した。その後,京都,奈良を訪れ,11月初頭に,おそらく神戸で乗船して中国へ向かっている。以下は,ノルデの自伝の第3巻『世界と故郷』中に見られる日本の印象記を,一部省略して翻訳したものである。


 日本‐‐日出づる国
 我々は次に日本へ行った。一等車の我々の席の向かいに,非常に上品そうな二人の紳士が腰掛けていた。我々と同じように,きちっとしたヨーロッパ風の服を着ていた。しかし,やがて一人が座席の上に足を組んで坐り込み,もう一人も同じようにした。ある駅で彼等は,食物の入った四角い木の箱を買い,すぐに,付いていた箸で美味しそうに食べはじめた。我々もそうすることにした。それは,十二の仕切りに分れていて,珍しい物がぎっしり詰まっていた。我々には,それが何であるのか全く分らなかった。そして,どれもこれも食べられそうにもないのを見て,全く驚いてしまった。何も食べることができなかった。ただ吐き出すだけだった。空腹も好奇心も役に立たなかった。口をすぼめて,少しだけでも食べてみようと,何度も試みたのだが。唐がらし,腐った魚,いやな臭いのする油―おおよそそのような物と思えた。箱は,手を着けずに残された。
 ことほど左様に,この国の人々の欲する物,趣味,食物は異なっているのだ。
 車窓から日本の山が見えた。これまで何度となく描かれてきた富士山だ! 我々が通った路線は,ちょうどその日,天皇(Mikado)も通ることになっていた。あらゆる踏切,あらゆる空地,あらゆる駅に,小学生や警官や兵士や見物人が群がって立っていた。 ……
 寺院,宮殿,公園,赤い門,橋といったものをたくさん見た。多くの所蔵品がきちんと展示されている美術館を訪れ,また,多くの小さな高価な美術品の売立てをも見た。 ……
 我々が見物した劇場は,小さな桝目に仕切られていて,それぞれに8人から10人の人が坐り,お茶を飲んでいた。 ……劇自体は,全く厳格な様式を持つものだった。力強い英雄的な仕草,役者の顔と動きは,上品で美しかった。女の役は,男の役者が演じた。
 芸者(Geisha)のいる所へも夜に何度か行ったが,とりたてて面白いというものではなかった。おそらく一人は6歳,もう一人は12歳になる娘が,歌いながら踊った。 …… その小さな娘たちは,見ていて可愛そうになる位の子供だった。他の家で,座敷に居並んでいる娘たちの多くは,最初の子供たちよりはずっと年をとっていて,色がさめていた。金歯を見せ,けばけばしく着飾っていた。ヨーロッパに時折やってくる芸者のグループは,華奢でしとやかな娘を特に選んだものなのだろう。
 ふかふかした,クッションの利きすぎるソファーのある欧米風の豪華ホテルを,我々は数日で辞去した。本当に日本的な宿屋に泊ることにした。我々は,日本の食物を食べ,床に寝た。紙の壁に囲まれた,家具の無い部屋で,畳の上に横たわったが,とても明るく,清潔で,心地良かった。 ……
 風景を見たいと思って,我々は高地にある小さな湖を訪れた。車は,くねくね曲った,急カーヴのある狭い急坂を,尋常とは思われぬ猛スピードで登って行った。すぐ脇は急な谷であった。我々は顔を見合わせた。しばしば心臓がドキドキした。しかし運転手は,驚くほど腕が良かった。 ……
 京都の美術館で尋ね事をした時,驚いたことに,脇の扉から,ドイツの美術学者カール・ヴィトが出て来た。我々は彼を個人的には識らなかったが,彼がオストハウスの依頼で,フォルクヴァング美術館に古い美術品を購入するため,日本へ来ているということは聞いていた。 …… 遠い異国での,そのような出会いは,いつも,とても素晴らしく,心強いことである。我々は彼から,真に見るべき価値のある美しいものがどこにあるかを,教えてもらった。彼は我々に,非常に古い褐色の中国画を見せてくれた―風景画であった。それから,一匹の虎の絵。画面で巨大な虎が狂暴な眼をして歩いている様が,私には今日でもまだ見える。それから我々は彼と共に,車で法隆寺(Huriusi)へ行った。そこで我々は,ある仏像の背後に,一般の人々には見えないように置いてある,夢殿観音(Kwannon Jumedone‐‐訳註:夢殿の救世観音のことであろうか)の神聖な美しい姿を見ることができた。我々は,その苦悩をはらんだ微笑の表現,その素晴らしいブロンズの〔ママ〕体の形に感嘆した。それは,我々が日本で見た最も美しい芸術品となった。また我々は,別の寺,尼寺で,小さな愛らしい如意輪観音(Kwannon Neojerin‐‐訳註:中宮寺の菩薩半伽思惟像のことであろう)を見た。それは,顎に手を当て,片足をもう一方の膝の上に置き,世界と人間,安寧と苦悩に深く思いをめぐらし,坐っていた。その足下には,このみ仏に仕える小さな尼が坐っていて,我々外国人に慎ましく挨拶し,我々をその穏やかな,大きく黒い眼で見た。
 更に多くの美術品を我々は見た。古い,真に価値のある作品は全て中国のものだった。 ……
 日本独自の芸術は,重要ではない。素晴らしい木版画,漆やブロンズによる美しい工芸品を,日本人は作る。しかし,すべては,趣味の品という領域に留まっている。それはちょうど,彼らの居住様式や建物が,きわめて良く手入れされていて,清潔であるのと同じだ。道や村落を含めた風景全体もそうである。
 平坦な頂を持ち,すっきりした滑らかな円錐形をした富士山は,そのような日本の,最も完全な象徴と言えるだろう。

 


過去のあれこれは下線のある番号から
      2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 2023 2024 2025 最新