あれこれ、日々に感じたことを書いていきます。

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2025.04.25

あれこれ01128

   1987年8月23日、夏合宿のスケッチです。38年前だから随分時間が経ちました。この時のことは思い出せませんが、激しい雨で宿に閉じ込められたので幹事が気を利かせて宿の娘さんをモデルに引っ張り出し描いたのだと思います。当時は民宿は盛んで団体客も捌けるものが多くて合宿は民宿利用でしたね。

 ケント紙にペンとインクのスケッチです。鉛筆の下書きなしで描いて上半身が大きくなりすぎ脚がはみ出すのを無理やり収めたのだと思いますが、足を小さく描く傾向はありました。モデルさんがこれを見たら怒り出しそうです。

 人体の木炭デッサンでも川上先生から足を小さくしがちだから気をつけなさいと言われたこともあります。先生の人物画はガッチリした大きい足の人でしたからなおさら小さく見えたはずです。

 この絵は神経質で弱弱しく、先生の絵とはほど遠いです。今にして思えば先生と気質の違いは大きくて先生のような絵は描けないのは当たり前だと感じます。


2025.04.20

あれこれ01127

   米伊合作映画「天地創造」からノアの箱舟です。原題は「The Bible: In the Beginning...」日本の題名は意訳ですね。今なら「ザ・バイブル」とかしそうです。爺いとしては「天地創造」にしたのは大したものだと感心します。50年以上は前のはずですが映画館で見た大画面で、エヴァ・ガードナー演じるサライが暗闇に何とも言えない笑みを浮かべるシーンが目に浮かびます。ゲーテの「詩と真実」を引用したときサライは子を産まないので、あの笑みはなんだったのかなと不思議でしたが、天地創造のウィキペディアを読むとサライに子供が授かる予言が書いてありました。サライは90才で予言を信じられない笑みだったと得心しました。
 ゲーテの学んだ創世記と違いがあるのは複数の伝承があって、超自然的な立場を排している伝承なのかなとも考えましたがどうなんでしょうか。


2025.04.15

あれこれ011236

   真鶴町岩海岸近くの角地にある廃店舗に残るなつかしの宣伝用看板です。岩海岸は砂地の浜があって、夏は海水浴場です。今は寂れて訪れる人も少ないですが昔は賑わっていました。
 アース渦巻かとり線香の看板は、昭和40年代のもののようですがまだ残っています。下のだるまクレンザーの看板ともども、錆もせず、色落ちもなく、しぶといですね。当時の製品の質が高いのにびっくりです。脚の長いモデルさんは由美かおるですが、団塊の世代には懐かしいですね。  たしか、手の届く範囲には松山容子のボンカレーの看板も残っていた気がしますが、残念ながらありませんでした。


2025.04.10

あれこれ011235

   真鶴町役場脇の桜です。成長の早い桜でもこの幹回りは大したものです。散歩するたびに感心しています。この季節は花もめでられて格別です。なのですが、道路わきのわずかな場所に植えられて、電柱も横にガードレールも迫り、あまつさえ根元はゴミ集積所というありさま。
 真鶴は平らな場所はほとんどなく、傾斜地を切り開いて出来た町です。ひしめき合っているので街路樹などは植える余裕はないのですが、それでも植えて今に至っているのでしょう。枝の管理は大変だと思いますがしっかりやって見事な桜にしたのです。


2025.04.05

あれこれ011234

   4月3日の散歩途中で撮影したものです。
 3月の末に暑いくらい暖かくなったものの、現在は寒く雨も多い妙な天気です。強風になることも多いですし長年経験したものが役に立たなくなっているような気がします。
 奥に見える桜は早々と咲いて散るのが早いのでないかと心配しましたが、まだまだ盛んなままで楽しくなります。ここはお寺で手前の緑は生垣なんですが、なんとも驚くべき手入れの仕方ですね。桜を主役にしたいところですが、押しのけてしまう存在感です。


2025.03.30

あれこれ01123S

   ゲーテの肖像画の模写です。
 昭和16年第1刷、昭和24年改版、昭和44年第23刷岩波文庫版ゲーテ著「詩と真実」を読み直しましたが、青少年時代の聖書研究で、創世記の記述がかなり続きました。以下はその一部です。
 ここに子孫の無窮といふ~の預言がくり返され、それのみか預言はいよいよその範圍を擴大する。オイフラット河から、エヂブトの河に至るまでの全地域が彼に約束せられる。しかし彼自身の後嗣についてはまだ見込みがなく、彼は八十歳になつて、一人の息子ももつてゐない。アーブラハムほど~々を信ョしない妻のザーラは苛立つてきて、東洋の風習に做つて侍婢によつて子孫を得ようと思ふ。しかるに婢のハーガルが家長にその身を委せて、一人の息子の希望が見え出すとすぐに家庭に不和が起る。主婦は自分が保護してゐる女をひどく虐待する。ハーガルは他の遊牧族の許でもつと幸福な境遇を見出さうとして逃げる。だが、主の指圖によつて歸つてくる。かくしてイスマエルが生れるのである。
 ユダヤ人のパレスチナ建国はアブラハムに下された神の予言にしたがっているのでしょうが、実はもっと広大に予言されているのです。イスラエル軍は、アサドの失脚時ゴラン高原からシリア領に進出占領していますが予言を実行している感覚なのでしょうか。なんか恐ろしい気がしました。


2025.03.25

あれこれ01122

   芥子園画伝山石譜 荊浩の模写です。

 関同は荊浩を学んだと前回紹介しましたが、師にあたる荊浩の描き方です。

 この2例を見ると、ごつごつした岩山でも、荊浩のは深い山脈の奥に聳え立って、厳しくも神々しい感じを受けました。一方、関同のは険しい岩山でも足下は樹林で優しく包まれていて親しみを感じます。


2025.03.20

あれこれ01121

   芥子園画伝山石譜関同の模写です。

 荊浩と関同(中国語版)は唐末から五代にかけての山水画家である。唐時代までの中国絵画は彩色画が中心であり、山水画も青緑山水が主流であって、水墨の山水画が盛んになるのは宋時代以降のことである。荊浩と関同は水墨山水を描いた初期の画家であり、後世への影響が大きかったが、彼らの作品の原本は現存しない。荊浩は河南沁水の人(本籍については異説もある)で、字を浩然といった。彼は『筆法記』という画論を書いており、次のような言葉を残している。「呉道子の画山水には筆あれども墨なく、項容には墨あれども筆なし。吾は二子の長ずる所を采(と)りて一家の体を成すべし」。すなわち、唐代の名画家・呉道子には線描の美はあるが水墨の美はなく、項容(中唐の画家)には水墨の美はあっても線の美はない。自分は両者の良いところを採って、自分の画風を確立する」ということである。関同は、『宣和画譜』『図画見聞誌』に「長安の人」とあるが、出身地は不明とする史料もある。荊浩に学んだということ以外、詳しい経歴はわからない。荊浩については『匡廬図』(きょうろず、台北故宮博物院)、関同については『秋山晩翠図』、『山谿待渡図』(ともに台北故宮博物院)などの伝承作品がある。いずれも水墨山水で、中国北方の険しい岩山を描いたものである。(Wikipediaの「中国の絵画」から)
 現物はほぼない絵画の変遷を当時の画論や伝承作品で延々と積み上げている中国人は、伝統を大事にして新しいことに挑んでいく人々かなと思いながら引用しました。


2025.03.15

あれこれ01120

   芥子園画伝山石譜劉松年の模写です。

 劉松年は南宋(1150?〜1125以後)の人で、日本だと白河上皇の院政期でしょうか。

 銭塘(杭州)の人。李唐の弟子の張敦礼に山水・人物を学び、紹興年間(1190-94)画院待紹となり、寧宗に(耕織図)を献上し、金帯を授かった。院体画の大成者で、李唐・馬遠・夏珪と併せて南宋四大家と呼ばれる。
 師の張敦礼よりも高い名声を得て、後に二李の大斧劈皴と小斧劈皴を融合して独自の皴法をつくり出した。

 ごつごつした岩山に適した皴法なのがこの絵を見ていると感じます。


2025.03.10

あれこれ01119

   幕末、英国大使の日本語通訳士として来日したアーネスト・サトウの肖像です。明治維新を英国側から見た記録でもある、岩波文庫「一外交官の見た明治維新」から模写しました。大学のとき読んで最近読み直し考えさせられることが多々ありました。その一つです。
 「日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。だが、外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書かなくてはならぬ。さもなければ、そうした企図は完全に失敗に終わるだろう。しかし、この国には侍がすこぶる多く存在していたのだから、こうした事は実現不可能であった。一九一九年(訳注 大正八年)の今日から見ると、だれにもせよ日本精神を理解していた者が、唯の一瞬でもこうした考えをいだいたということは、冗談にしろ全く信じられないのである。」
 日本人は、言語と文字は日本語以外を受け入れない基盤が太古からあったような気がしました。弥生や古墳時代は大陸からの移住民で溢れかえっても支配階級の言語にはならなかったような気分です。誰か教えてですね。


2025.03.05

あれこれ01118

   4日は春季新作家展の飾り付けでした。写真は準備完了の入り口です。泰明小学校の前にある銀座洋協ホールは、川上尉平先生の遺作展をした画廊です。45年は経っているはずなのでずいぶん昔のことですが懐かしい思い出の場所です。建物名称はギャラリーセンタービルで、当時、斬新なデザインのギャラリー専用建物だと評判になった記憶です。職場が近くで昼休みに覗いていました。大きい画廊が多くて、重厚な大型作品を並べているところは気後れしながら入ったのを思い出します。
 時代は移り、画廊だけの建物も異業種が入り大きく様変わりしています。銀座は古いものもしぶとくありますが大規模建て替えの最中です。ここは、建物周りに足場があり外装の手入れをするようなので、しばらくは大丈夫かなぁと思いながら入館しました。


2025.03.01

あれこれ01117

   F30のパネルに和紙を張って描いた水墨画です。樹叢と名づけました。3月5日から銀座で開催の春季新作家展に出品します。絵を描くのもしんどいですが、展覧会があるので描かざるを得ません。外圧があってやっとできたのです。
 東京大学史料編纂所本郷和人教授が日本史はゆるい、外圧で締まる論を展開されていますが小生にも当てはまりますね。スケールが桁違いですが。


2025.02.25

あれこれ01116

   MWS珪藻プレパラートHKZ-01(渓流)からフルスツリアの断片です。全体のものもあり、その方が見栄えもするので普通ならばこのようなものは紹介しないはずですが小生は、これも良しの好みです。殻面の厚みが周囲の立ち上がりや中央の突起の厚みと比較出来て情報が多いのもあり、なんとなくはかなさもあって惹かれます。
 電子顕微鏡の画像では、殻面は平滑でそこに規則正しく胞紋が並んでいて、裏面はこの画像のような感じです。ですから、これは裏面を観察しているはずだとなりますが、生物顕微鏡の世界はそう簡単ではありません。表面が上にあってもピント位置をかえていくとどんどん変化しこの姿も現れます。


2025.02.20

あれこれ01115

   昨年9月に載せた排水溝の土留めが倒れたところの再建の様子です。どうするのか興味津々でしたが半年近くたって手が付きました。かなり考えたのか、予算がなかったのかわかりませんが、パイプを打ち込んで網状パネルを取付けることでしっかりと土留めの役割をしていますし、型枠にもするうまい手だと思いました。
 真鶴に越して30年、崖崩れは聞いたことはなく、高低差の激しいところでも安定していると思っていましたが、昨年は二か所であり異常な感じを受けました。異常気象が当たり前の世の中になっていますし不気味さが募るばかりです。


2025.02.15

あれこれ01114

   スケッチは港とか断崖と岬でしたので、そこを油で描くのが普通です。ところが、そうならないのが小生なのです。写生地をくまなく歩くのが習慣でしたから、海岸沿いと言っても崖の上の小径に入り込んで松林の中を歩きました。その途中で見つけたのがこの場所です。そして、枝振りが気に入ったのだと思いますが、ここを写生地としたわけです。  幹と枝を正確に写そうとすると神経衰弱になりそうでイライラしたのを覚えています。途中で小雨が降りだしても森の中なのでなんとかしのげた記憶もあります。苦労して描いたので思い入れも深い作品です。


2025.02.10

あれこれ01113

   前回に続きます。スケッチした場所は思い出せないものの、岬が左から右なので八幡野港から南に下ったところですね。日付が22日なので現地に到着してすぐだと思います。9月後半で天候に恵まれなかったのが絵を見ると明らかですね。
 夏合宿は8月末で3泊4日のが長かったのですが、時には台風が直撃したこともありました。初日に台風が通り抜けたこともあって宿の人が人数がそろうのか心配しているのを幹事が夕方にはそろうから安心して下さいなどと答えていたのを思い出しました。実際、取り消しの人がわずかに出ただけでした。若かりし頃の話で、野蛮だけど良い時代だったなと思います。


2025.02.05

あれこれ01112

   昔のスケッチです。2005年9月24日伊豆伊東市の八幡野港で、波が立っているのと色彩がくすぶっているのは風強く雨交じりだったと思います。
 記憶が定かではないものの、遅い夏合宿の最終日で帰る前にササっと描いたものでしょう。あるいは朝食前のものかもしれません。
 58歳の時で、この頃まで合宿をやっていたんだなと懐かしいですね。若い頃は参加人数も多く賑やかなものでしたが、この頃は少人数でひっそりとして落ち着いたものだった記憶です。


2025.01.30

あれこれ01111

   「これ貞観六年孟夏の月。皇帝、暑を九成の宮に避く。これすなわち隋の仁寿宮なり。」

 唐の第二代皇帝太宗が皇后とともに仁寿宮に避暑に行き甘美な泉を見出し瑞兆として石碑を建てました。古来楷書の名品として珍重され、現代日本でも「九成宮醴泉銘 欧陽詢」として習字のお手本帳となっています。

 左図は、巻頭の一頁をスキャニングし輪郭をなぞって輪郭線のみのデータにしました。それをプリントして下が透ける半紙をのせ書いたものです。

 このように実力で書ければいうことはなし。なのですが、電子機器とソフトの力を借りて出来たものです。それでも勉強になるらしいです。字配りとか筆の動きとか名人の息遣いを感じて意義がある。と解説されていたのを見たことがあります。


2025.01.25

あれこれ01110

   顕微鏡の世界では暗視野にすると暗闇の中に光り輝くものが現れます。光の当て方を変えると色変わりの世界も現れます。図はMWS珪藻プレパラートJ297から、そんな色変わりの世界を合成したものです。
 ギロシグマ(エスガタケイソウ)じゃないかなと思っているのですが、形も違えば色彩もかなり違って楽しい世界です。左の濃藍から明るい空色への変化は腑に落ちますが、右の青緑から赤に変わるのはビックリものですね。


2025.01.20

あれこれ01109

   モースは大学近くに洋館を作ってもらい授業や講演をし、全国を訪れ多くの人と触れ合いながら研究材料や大学の標本も採集しているので日本の知見は広く深いものがあったようです。そして親日家として知られます。以下は日本の国民性に関する記述です。時は明治10年以降です。地方は江戸時代と同様だったと思います。
 晝間通過した村は、いつでも無人の境の觀があつた。小數の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いづれも田畑で働くか、あるひは家の中で忙しくしてゐた。これはこの國民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示してゐる。人々は一人殘らず働き、みんな貧乏してゐるやうに見えるが、窮民はゐない。我が國では大工場で行はれる多くの産業が、ここでは家庭で行はれる。我々が工場で大規模に行ふことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蝋の製造、その他の多くが行はれてゐるのを見る。これ等は家族の全員、赤ん坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁老婆に至る迄が行ふ。(私は京都の陶器業者に、殊にこの點を氣づいた。)
 


2025.01.15

あれこれ01108

   モースは大森貝塚を発見したことで有名ですが日本滞在記も残しています。1877年39才でシャミセンガイの採取目的で来日し、縁あって東京大学の動物学科の教授になります。図はモースが描いたものでふんどし一丁で働く日本人と貝塚の出土品です。以下はその文章から
 日本に着いてから數週間になる。その間に私は少數の例外を除いて、勞働階級―農夫や人足達―と接觸したのであるが、彼等は如何に眞面目で、藝術的の趣味を持ち、そして清潔であつたらう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づきたいと思つてる。この國では「上流」と「下流」とが、はつきりした定義を持つてるのである。下流に屬する勞働者たちの正直、節儉、丁寧、清潔、その他我が國に於て「基督教徒的」とも呼ばるべき道コのすべてに關しては、一冊の本を書くことも出來るくらゐである。
 昨今、Youtubeで来日外国人が日本は素晴らしい国だと叫びまわっていますが、今も昔も変わっていないのですね。さすがにふんどし一丁はなくなったとしても。


2025.01.10

あれこれ01107

   28才で描いたF0号の油絵です。子供のころから絵は好きだったのですが、職場の美術部に入って本格的に描き始めたころの作品です。油絵の経験はなかったので恐る恐る描いていました。
 キャンバス上で絵具を混ぜて色や質感を出すことも知らず、パレット上で作った色をキャンバスにこすりつけているだけの絵です。工夫したのは柿を布の上に置いて、平面に変化をもたせて補色の緑色にしたことです。セザンヌの静物画に果物や瓶などと布を組み合わせたものがあり真似したのです。


2025.01.05

あれこれ01106

   岩波文庫・クセノフォーン著「ソークラテースの思い出」からの抜き書きです。
 「神々は第一に、あらゆる生き物のうちで人間だけを眞直ぐに立たせた。そして直立は前方を一層遠くまで見ることを得しめ、上方にある物を一層よく見ることができるようにし、一層怪我のないようにする。第二に、ほかの匐って歩く物どもには、足という單に歩くことしかできぬ物を與えたのに、人間にはその上に手というものをお授けになり、この手がわれわれを彼らよりも幸福とした一切の物を作り出したのである。さらにまた、あらゆる生き物が舌を持っているのに、ひとり人間の舌のみに、口のいろいろな場所に觸れて音を發し、思うことをなんなりとお互いに傳えられるようにした。〔また性的快樂も他の生き物には一定の季節に局限しながら、われわれには斷續なく、老境に入るまでこれを許してある。〕
 類人猿から人類へと進化した要因をソクラテスは明確に述べています。古人類の化石が続々と発掘されているころ激論が交わされていたようですが、古代ギリシャ人ソクラテスにとっては自明の事だったのです。古代中国の論語といい古典の大事さを感じさせます。


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